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仙の道 2

第一章 『出』(2)


翌早朝、礼司は階下に鳴り響く電話の音で目を覚ました。階段を降りると、昨夜の放心状態からすっかり抜け出した様子の昌美が電話に応対していた。昌美はリビングに降りてきた礼司を見ると、受話器を遠ざけて囁いた。
「礼くん、ちょっと新聞取ってきて頂戴。お父さんのこと載ってるって…」

電話の相手は父親の弟のようだった。礼司は早速玄関から取ってきた朝刊に目を通した。社会面に載った記事はごく小さいものだった。

『株式会社河丸建設(本社・東京都港区)はかねてより進めていた社内調査の上、本社内で巨額の詐欺横領事件があったとして、昨日四月七日に所轄警察署に被害を届け出た。報告を受けた港区愛宕警察署は、河丸建設本社総務部長の春田隆司容疑者(52)に業務上横領容疑で任意同行を求め、取り調べを行なったところ、大筋で容疑を認めたため、同日、春田容疑者を拘留するとともに、共謀関係にあったとみられる株式会社塩谷工務店(東京都江東区)代表取締役社長・塩谷泰三(64)を詐欺容疑で逮捕した。春田容疑者と塩谷容疑者は過去三年間にわたり共謀して、河丸建設に書類上架空の社内事業を創り上げ、塩谷工務店に発注施工させたとして、数度にわたり多額の施工費を請求させていたとみられている。関係者への取材によれば被害総額は二億四千万円に及ぶ。警察及び地検は両容疑者の犯行への動機や経緯、また横領した金の配分や使い道など、現在取り調べを進めている』

やがて佳奈がリビングに降りてきた。
「どうしたの?」
「お父さんのこと、新聞に載ってる…」
「やだ、もう?そういえば、昨夜、荒木さんが大きな事件になるかも知れないって言ってた」と佳奈は新聞の記事を覗き込んだ。

昌美は電話を切ると、憂鬱そうな表情で新聞が広げられたテーブルの椅子に腰掛けた。
祐治ゆうじおじさん、何だって?」
「驚いたってさ、3年間も何で気付かなかったんだって、怒られちゃったわよ。何であたしが怒られなきゃなんないのかしら…まったくさ…」
「2億4千万だって…」佳奈が新聞記事を指差して呟いた。
「うそ!そんなに?」昌美が記事に顔を近づけた。
「やだ、あの人、そんなお金何に遣ったのかしら…?」
「全部お父さんが遣っちゃった訳じゃないんじゃない?それより…お母さん、もう大丈夫なの?」
「そうよ。お母さん、昨日、普通じゃなかったわよ。心配したんだから…」
「あー…ごめんね。でも、一晩寝たら、何だか覚悟が出来ちゃった。あ、これは現実なんだって…本当に起きてることなんだって。あんたたちには心配させちゃって申し訳なかったけどさ、あたしがしっかりしなきゃ駄目なんだって気が付いたわ」
「良かった!お母さんが壊れちゃったらどうしよう…って…本当のとこ、怖かったんだ、あたし。礼司はまだ大学受験があるし、あたしも、会社まだ、この先どうしていこうかって、悩んでたところだったし…それで、お父さんがこんなことになって…お母さんまでおかしくなっちゃったら、どうしたらいいんだろ…って、ま、あんまり考えても訳分かんなくなっちゃうから、深く考えないことにしたんだけどね」
「ごめんなさいね…でも、もう大丈夫よ。あたしもこの先どうなるのか、分かんないけど…3人一緒にいれば何とかなるわよ、きっと…あら、また電話だわ…」


この日は朝から電話が鳴り続けた。親戚、友人、知人、親しい近隣の人々…一家の窮状を心から心配している人もいれば、露骨に興味本位と分かる電話もあった。礼司や佳奈の携帯電話にも友人たちから沢山のメールが飛び込んできた。
幸いこのニュースがテレビで取り上げられることはなかったが、昼頃になるとマスコミ関係者から数件取材申し込みの連絡があった。近隣の人からの話では既に雑誌記者が近所を徘徊し、聞き込みを始めているようだった。家の周囲に人が押し掛けたり、嫌がらせの電話が鳴り続けたり…といった刑事ドラマでよく見るような事態は起きなかったが、礼司たちは外出を控え、弁護士の荒木からの連絡を待った。


荒木からの電話は夕刻前だった。
家族が3人とも家にいることを確認すると、程なく彼が家を訪れた。


「御主人の会社の方にも伺ってきました」
リビングのソファに座ると、鞄から資料ファイルと手帳を取り出しながら話をし始めた荒木は、細身のシックなストライプスーツを着こなし、高校の同級生のはずの父親よりも大分若く見えた。
「奥さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい…昨日はちょっと、取り乱しまして…すみません。少し、落ち着きましたから…」
「そうですか…じゃ…」荒木は黒縁の眼鏡を老眼鏡に掛け直して手帳を開いた。

「春田、あ、すいません、御主人の罪状ですが、概ねはっきりしています。昨日お嬢さんには説明しましたが、横領行為がはっきりしていますから、業務上横領罪と背任罪に問われることになると思います」
「新聞の記事には2億4千万って、書いてありましたけど…」昌美が恐る恐る切り出した。
「会社の方の話では、被害総額は確かにそんな感じですね。ただ、その内の御主人の受益分がどの位あるのかについてはまだはっきりは分かっていません。今朝共犯の工務店と社長宅に家宅捜査が入りましたから、追々はっきりするでしょうけど、春田くん、あ、すいません、ついつい友達付き合いが長いんで…」
「いいんです。お気になさらないで…」
「はい、じゃあ…春田くんとの接見での話では、実際のところまあ6千万位という感じでしたね。細かいところは良く覚えてないみたいでしたけど…」
「6千万円……ですか…」
「会社側は事実関係がはっきりしたら、損害賠償の訴えを起こすでしょうから、こちらも示談交渉を進める準備をしておいた方がいいですね」
「でも…お父さん、何にそんなに遣ったのかしら…?何か言ってました?」佳奈が訊いた。
「ええ…ここからが、ちょっと御家族にはお話しにくいんですが……あいつ、実は、愛人がいるらしくて…その…彼女に、援助といいますか、マンションの家賃やいろいろですね…あとは、自宅のローン返済に充てたと言っていました」
「愛人っ?」礼司は耳を疑った。仕事一筋だった隆司が家庭以外に愛情や時間を注ぐ対象があったことに驚かされた。
「へーえ…そういうことだったんだ…ローンがこんなに早く返せるなんて、おかしいと思ったんだ、あたし…」佳奈が吐き捨てるように呟いた。
「その愛人っていうのはですね、どうも共犯の工務店の社長から以前に紹介されたようで…その工務店っていうのは、春田くんが営業部だった頃に、上司の本部長から紹介されたという経緯があるんです」
「杉田さん…?」
「あ、あの…守秘義務がありますんで、私の口から個人名は出せませんけど…」
「じゃあ、その…社内にも共犯者がいるってことですか?」
「春田くんが話してくれた経緯を繋ぎ合わせると、その可能性が大きいですね。会社の方も、どうやらそうみているようです。ただ…私が大きな事件になると申し上げたのは、ここからで…春田くんにその女性を当初引き合わせた工務店の社長は、ある代議士の後援者でもあります。その代議士が政務を行なう国土交通省は河丸建設のクライアントでもあるんです。いいですか?このパイプを創り上げたのが、前の営業本部長で春田くんの元上司だった方ということなんです。しかも、春田くんが面倒を見ていた女性は、以前その代議士が面倒をみていたという話で…あいつも初めは預かり物を引き受けた感じだったらしいんですが、そのうちに…何て言うか…そういう関係になってしまったらしいんです…すいません…こんな話で…」

昌美は無言で荒木の話を聞いていた。
「つまり…春田くんの言った事が全て本当だとすると…いや、僕は本当だと信じていますが、これから検察側も供述に従って細かく裏を取り始めますから…これは単なる横領事件では収まらない筈です。彼は何らかの政治的な裏金作りに利用された、というところですかね。ただ、幸いなことに、本人はそれには気付いていなかったようです」
「気付いていなかった…って…全然ですか?」礼司が割って入った。
「そう…総務部長に就任する半年位前から彼女の世話を任されてます。彼女はそれまでのしがらみから逃れたいと春田くんに相談する…二人の関係が深まってゆく…その矢先に営業の第一線からも役員コースからも外される…気落ちした彼に元上司の役員から塩谷工務店の業績が落ち込んでいるので力になってあげてくれと頼まれる…社内の細かい施工事業の決裁権は総務部長が持っていますから…どうです?筋書きがうまく出来過ぎていると思いませんか?」
「そうか…父は、はめられたってことですか?」
「まあ、そう推測できないこともないってことです。ただ、実際にはその中から本人も金銭を享受している訳ですから、一概に百パーセントはめられたとは言えないんですが…僕は、春田くんは本人も気が付かないうちに利用されただけなんじゃないかと感じています」
「でも…あの人…その女性と愛人関係だったんでしょう?」
「ええ、奥様には申し上げにくいんですが…それは、事実です。ただ、その女性が今回の事件の全ての経緯を知っているかも知れません。知った上で、御主人に近付いたというか…誘惑したというか…そういうことも考えられる訳で…まあ、つけ込まれて、犯罪に手を染めた春田くんの責任は大きいんですが…その経緯が明らかになれば量刑も多少軽くなる可能性はありますしね」
「じゃあ、その女の人を取り調べれば本当のことが分かるんじゃないですか?」佳奈が訊ねた。
「もちろん、警察は探していますが、担当の方の話では、ここ2、3日マンションにも帰っていない様子で…行方が分からないと言っていましたね。あとは工務店の社長からどんな供述が取れるかによっても、状況が変わると思います。それより、この一件がもしも政治スキャンダルに発展するとなると…間違いなく相当マスコミが動き出します」
「ここにも押し掛けるってことですか?」
「そうなると思います。実際塩谷工務店はそれほど経営に行き詰まっていたという事実はないようでしたし…間違いなく金はその代議士の方に流れていた可能性が大ですね。これは僕からの提案なんですが…奥様たちは騒動になる前に、なるべく早くですね、当面の間ここからどこかに生活を移された方がいいように思うんですが…」
「ここに…いない方がいいんですか?」聞き返した昌美の声が少し震えていた。
「ええ、場所は僕の方でどこか用意しますんで…出来れば明日にでも…」


弁護士の荒木は、礼司たち家族が今後の成行を見越して、どう立ち回れば良いかについて、詳しく話をしてくれた。早急に自宅を離れる事に加えて、隆司名義の資産には当面の間手を付けないこと、また荒木の立会いのない場所で第三者に過去3年間の家族の話は決してしないように念を押した。


佳奈はその日の夜に、関西に住む親友を頼って家を出た。
一家の当面の生活費は、母親名義の貯金だけでは心許なく、この先母親と礼司が身軽に生活を確保できるようにとの配慮だった。

次の日の早朝、荒木が礼司と昌美を迎えに来てくれた。取り敢えずの必需品をまとめ、用意してくれたバンに積み込んだ。10年間住み続けたマイホームとの慌ただしい別れだった…

第3話につづく…

第1話から読む...


連載小説『仙の道』では表紙イラストを、毎回一点イラストレーターであり絵本作家のカワツナツコさんに描き下ろして頂いています。
カワツナツコさんの作品・Profileは…
https://www.natsukokawatsu.com




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