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「違い」はあっても「不正解」はないでしょ。

例えば政党は「どうすれば日本を良い国にできるか?」についての考え方がある程度似通った人たちの集まりなわけでしょ、ざっくり言えば。で、日本には10の政党が存在してますね。乱暴に無所属を加えるなら11か。「どうすれば日本を良い国にできるか?」に対する考え方が11通り以上あるわけです(当然、ここに含まれない政治に興味をもっている日本国民や他国民がそれぞれの考え方を持っていることを想像するとそれは数億以上になる)。「どの政党が正解でどの政党が不正解なんですかね?」って質問があるとしたら、それへの回答はひとによって異なるはずです。このことは「どうすれば日本を良い国にできるか?」に対する考え方の「違い」はあれど「不正解」はないことを表していますよね。

「論理的に実証可能なことを積み上げていった上に最適解がある」、ロジカルシンキングの骨子です。これに基づき仕事を進めることが「最適解=正解」であるならこれ以外の思考は生まれてこないはずですが、90年代ころからデザイン思考、近年はアート思考という異なるアプローチも生まれ、たーくさんの企業で取り入れられていますし、それ以外の思考法も無数に提案されてきています。たとえばデザイン思考はロジックでなくユーザー視点で解決策を探る方法、アート思考は自分自身の経験や興味関心に基づき非連続なコンセプトを導き出し、そこからこれまでにない解決策を生み出す方法、てな具合です。これらの思考に共通しているのは「問題や課題に対する解決策を導き出す考え方」という点です。このことは、ある問題や課題に対する解決策を導き出そうとするときにはさまざまなアプローチがあり、それぞれに「違い」はあれど「不正解」はないことをここでも示しています。

プロジェクトマネジメント界隈においても、ウォーターフォール型のみならずアジャイル型、アジャイルだけでもスクラム、エクストリーム、リーンなど様々に枝分かれし、今なお変化は続いています。なぜ変化する必要があったのか?それはプロジェクトタイプの多様化に適応できる新たなマネジメント手法が必要であったからです。つまり、あるひとつの「正解」に縛られることなく、違うんじゃない?という疑問を持ち、その疑問を解消する試みをした結果として新たなプロジェクトマネジメントのアプローチが生まれたのです。どれも正解でも不正解でもなく、「違う」だけです。

上記のような例を挙げるならいくつでも出てくるでしょう。

「幸せな人生を送りたい」という想いに対して、それを実現する方法を考えるとします。大谷翔平がメッシに対して「サッカーなんてやってても幸せな人生にはならない。アナタは野球をやるべきだった。」と言うわけがありません。これは極端でアホな例えですが、どんな問題や課題に対しても、それを解決するためのアプローチはひとつだけでなく無限にあると思っています。そのどれが正解で不正解なのかはわかりません。すべてを試すことは不可能ですから。はっきりわかっているのは、その全てのアプローチは「違う」ということだけです。

誰かがアナタに何かを提案したとき、自分の考えと違うなら違いを認識し、その違いが何であるかを相手に示し、その上で提案がより良くなるためのディスカッションをすることは歓迎すべきアクションでしょう。しかし、「それは不正解(間違っている)。こうすべきだ。」と自分の考えを押し付けるべきではないとボクは思っています。全ての人たちが違いを認める前提で行動できるなら、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザ侵攻、過去の同様の惨事は絶対に起こっていないはず。まずは提案することに時間を割いてくれたこと自体にリスペクトを示し、その上で違う考えがあるならそれを丁寧に伝え、建設的なディスカッションに導いていく、ということを全てのひとが意識できる環境になるといいなと思ってるし、全てのひとがそうなるように努力していけるといいなと思っています。

まあこれ自体、ボクの考え方なのであって、みなさんとの違いはあると思いますから押し付けるつもりは毛頭ないけどね。

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