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〈定番のモノサシ〉ばっかり使うから、生きづらい

三高(3高)」。高学歴、高収入、高身長。
言わずと知れた、女性が結婚相手の男性に求める理想像を表現した言葉です。
(「3条件とも高くない自分はダメなヤツなの?」とつぶやく私の心の声が聞こえます…)

この「学歴」「収入」「身長」に代表される、ヨノナカでアタリマエに使われている「人の判断基準」を〈定番のモノサシ〉と呼ぶなら、自分のことを〈定番のモノサシ〉で測ろうとすればするほど自己評価が低くなり、生きづらさを感じるのではないでしょうか。

私は、四方を山に囲まれた田舎で生まれ、育ちました。
先日の記事でも書いたのですが、私の家庭は「機能不全家族」でした。
ですから、都内の大学に進学したときは、相当なカルチャーショックを受けました(まさか、同じ日本にいながら…)。
具体的には、次のような「アタリマエ」に遭遇しました。
・仕送りを送ってもらうのがアタリマエ(←仕送りゼロ、奨学金とバイトで食いつないでいる私って一体…)
・会話の中で他人をディスるのがアタリマエ(←そんな勇気、自分にはないよ…)
・大学での勉強はテキトーなのがアタリマエ(←じゃあ、みんなは何のために進学しているの?)
「仕送り」「ディスり」「テキトーさ」のどの〈モノサシ〉(=判断基準)で測っても、自分は最低ランクだ…。
しかも、周囲はこれらの〈モノサシ〉でしか私のことを見ていない気がする…。
深刻な自己否定・自己嫌悪に陥り、そこから脱却するまでには10年近くかかりました。

このような体験をしているので、〈定番のモノサシ〉ばかりを使っていると生きづらくなる、と思うのです。

とはいえ、このヨノナカでは、〈定番のモノサシ〉でしか自分が評価されない場面が少なくありません。
学校の成績、就活の内定、職場での昇進…。挙げればキリがありません。
特に就活では、〈定番のモノサシ〉で評価が低い人は、強烈な自己否定・自己嫌悪を感じているはずです。
何しろ、採用側が求める人材像=〈定番のモノサシ〉に、自分を当てはめなければならないのですから。
(私自身は、この「息苦しさ」に耐えられず、一般的な「就活」を回避し、福祉分野専門のハローワークで初職を決めました。)

ですが、就活のような社会的な場面では仕方ないにせよ、「自分自身をどう思うか?」という個人的な場面にまで〈定番のモノサシ〉を持ち込むと、生きづらさを感じるのは当然だと思います。
なぜなら、究極的には、人間は自分自身のことを肯定的に受け入れることではじめて「自分」を生きることができる、と思うからです。

「自分」を生きるためには、まずは「自分自身って何者?」と自問することになるでしょう。
このとき、自分一人だけでは自分のことは分析できない、と思います。
自分の特徴を知るためには、他人との比較が避けられないからです。

例えとして、「虹の色って何種類?」という質問について考えます。
日本文化を基盤にして生きている人は、きっと「7色だろ?(そんなのトーゼンじゃね?)」と答えることでしょう。
しかし、虹の色をどのように表現するのかは、文化によって異なるため、「8色!」「6色!」など、世界的には多様な解答が可能となります。
ですから、日本での「藍色」がアメリカでは言葉で表現されていない、ということにもなります。
もし自分が「藍色」だとすると、アメリカでは存在自体が否定されることになる?
そもそも、「藍色」って、「青色」や「紫色」と比較しなければ認知されない?
…この例で言いたかったのは、自分(藍色)の特徴は、他人(青色や紫色)が存在しなければ認識できない、ということです。
他人と自分を比較することではじめて、「自分は優しい人」「自分はせっかちな人」といった自己評価ができるのです。

「自分自身って、何?」というイメージがつかめたら、次はそんな自分を肯定的に受け入れられるかどうかが問題となるでしょう。
「藍色な自分が嫌い!」と思うかもしれません。
でも、そんな自分を変えることってできますか?どうしても変えたいですか?
結局は、「藍色な自分」のことを「しょうがないなぁ」と認めてやるかどうか、ということになると思います。
好きな自分も、嫌いな自分も、自分自身。だから、全部ひっくるめて受け入れよう!となれば、自己肯定できたことになります
このとき、「ヨノナカでは藍色なんて低評価だし…」などのようにセケンテイに固執してしまうと、いつまでたっても自己否定・自己嫌悪は止まりません。
だから、「〈定番のモノサシ〉ばっかり使うから、生きづらい」と、私は考えています。
自分のことを自分で認めてやれれば、あとは「自分」を生きるだけです。

〈モノサシ〉は「定番」以外にもたくさんあるし、自分で作ってもいい。〈モノサシ〉なんて、そもそも使わなくてもいいのかもしれない。
…と、自己否定・自己嫌悪に陥っていた、20代の頃の私に言ってやりたいです。

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