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中井久夫 『私の「本の世界」』 ちくま学芸文庫

ざっくり言ってしまえば、本書は中井のポール・ヴァレリー論と各種書評で構成されている。私はあまり本を読むほうではないのだが、書評は好きで、書評集のような本を読むと、そこに挙げられている本をうっかり次々と買ってしまったりする。その過半は積読状態で放置されることになるのだが、本書319頁で言及されている米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)は私もずいぶん前に読んで、そこに紹介されていた本の何冊かを手にした。

このnoteではこれまでに田中克彦の本を2冊取り上げたが、田中を知ったきっかけは『すごい本』で挙げられていた『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫)と『ことばと国家』(岩波新書)だ。『すごい本』には1995年から2006年にかけての12年間に書かれた米原の書評が収められているのでたくさんの本が登場するのだが、今改めて同書をきっかけに読んだ本を確認したところ、田中の本以外にも何冊かあった。

米原について、中井は

私は著者の一種のファンであって、その同時通訳体験から得た言語論に非常に教えられ、通訳だけが入れる特権的な現場の挿話もいかにもと思う。

本書317頁「「みすず」読者アンケート」より
「米原万里『旅行者の朝食』文春文庫、2004年」

と書いている。かつて私は仕事で英語通訳者の長井鞠子さんの仕事を10日間ほど間近で拝見する機会に恵まれた。その時は逐次通訳だったが長井さんは同時通訳もできる会議通訳者だ。その10日間の経験がその後自分にとってどれほど役に立ったことか。「百聞は一見に如かず」というが、ナマに体験して感心感動することに勝る学習は無いと思う。

言葉はそれが生まれた風土や文化と切り離して理解できるものではなく、一方で、現代には風土や文化の違いを超えて一足飛びに意思疎通を図らなければならない差し迫った必要性も存在する。その矛盾を克服するのが通訳者や翻訳者であり、そこには凡人の想像を超えた知見や発想があるに違いない。世間一般には「外国語の読み書き会話」は単に言葉を置き換えることで事が足りてしまうとの幻想が根強いが、それで済むなら世界はもっと平和だろう。機械翻訳とかAI翻訳が可能なのは、文化基盤をある程度共有できる言語間だけだと思うのだが、言語の成り立ちへの洞察など一切なく、無邪気なテクノロジー信仰が跋扈することには驚愕を禁じ得ない。この辺りのことは、以前にこのnoteで取り上げた「米原万里 糸井重里 『言葉の戦争と平和。米原万里さんとの時間。』ほぼ日WEB新書シリーズ」のところで書いたので割愛するが、母語を共にしていてさえ、他者を理解する、他者に理解される、というのは容易なことではないということははっきりしている。

言語には音声や文字などの記号的な部分と、言葉の音声や調子、さらには言葉だけでなく言葉を巡る雰囲気のような非言語、非記号のようなものも含まれている。例えば古典落語は噺自体は文字情報として記録されており、噺のキッカケからサゲまで明らかなものであるにもかかわらず、噺家によって、その時の観客によって、その日の雰囲気によって、その時の聴き手としての自分の気分によって、まるで違う噺になる。それが何故なのか、私にはわからないし、わかったところで他人様に語る表現力も言語能力もない。そういう点では、精神科医の診療も似たようなところがあるようだ。

先進的な内科の先生にいわせると何百という数字を流れるように読んでいくと特定の疾病のパターンが浮かび上がるようになるのが現代の医師だというが、それが自慢になるなら、精神科医は面接中に微細なるものも含めて何千というパラメーターを読んでいるということができるし、面接はそれだけでなく、治療の場の形成の基礎である。

本書100頁「神田橋條治『精神科診断面接のコツ』」

精神科医を受診したことがないので、「面接」がどのようなものか知らないが、中井がヴァレリーなどの詩の翻訳に終生取り組んでいたことと、精神科医としての臨床経験とは多分に重なっているのだろう。さすがに私は今からヴァレリーを読んでみようという気は起きないのだが、本書で取り上げられている本は何冊か読んでみようと思って既に手に入れた。ただそれらの本は私如きには一読したくらいではわからないだろうとの危惧もある。しかし、人生もあとは死ぬだけというような段階に入ると、できないことやわからないことが妙に楽しく感じられることもある。これはほんとに不思議なことだ。

近頃は物事が忙しなくなって、何事もすぐに「わかる」ことが要求されているような気がする。「エッセンス」とやらを見つけ出し、それを「わかりやすく」「工夫」して「ひとこと」で表現したり図解したりできることに価値があるかのように思われている。しかし、そんな誰もが「わかる」「ひとこと」なるものがあるとするなら、世の中はもっと平穏で今よりもずっとマシな状態であるはずだろうに、そうならないのは何故なのか。

熊谷守一がこんなことを書いている。

一般的に、ことばというのはものを正確に伝えることはできません。絵なら、一本の線でも一つの色でも、描いてしまえばそれで決まってしまいます。青色は誰が見ても青色です。しかしことばの文章となると、「青」と書いても、どんな感じの青か正確にはわからない。いくらくわしく説明してもだめです。私は、ほんとうは文章というものは信用していません。

熊谷守一『へたも絵のうち』平凡社 2000年 83頁
『熊谷守一画文集 ひとりたのしむ』求龍堂 1998年 98頁

私もさんざん駄文を書き殴っておきながら、こんなことを言うのもナンだが、書いてしまったことというのは腹の中にあることとはちょっと違う気がする。

熊谷はこうも書いている。

人間というものは、かわいそうなものです。絵なんてものは、やっているときはけっこうむずかしいが、でき上がったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし、人は、その価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです。

熊谷守一『へたも絵のうち』平凡社 2000年 149頁

この「絵」を他のものに置き換えても意味が通じる気がして、あれこれ実際に試してみて、あの人やこの人のことを思ってニヤニヤ笑ってしまう。尤も、

人間に共通な性質として「訂正しようとすると訂正しにくくなる」という事がある。

中井久夫『世に棲む患者』ちくま学芸文庫 136頁「説き語り「妄想症」—妄想と権力」

人間に共通な性質として一旦信じてしまった価値は、「ちょっと違うかな」と思っても、もう訂正できないのだろう。それで本人は「違うよなぁ」と思いつつも振り上げた拳の収めどころがわからずに己の暴走をどうすることもできない、なんてこともありそうだ。実に人間というのは「かわいそう」なものなのかもしれない。そんな人間の「精神」を分析することで、少しでも「かわいそう」を減じることができるのだろうか。それとも、多大な労力を費やして「分析」するには値しないのだが、今更訂正することもできず、行きがかり上みんなで「分析」を続けているというのが実態なのだろうか。

ちなみに、中井の本にも米原の本にも熊谷守一は出てこない。熊谷は物書きではなく、物描きという所為もあるかもしれないが。

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