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中井久夫 『「思春期を考える」ことについて』 ちくま学芸文庫

本書も表題作を含む様々な論考を一冊にまとめたものだ。「思春期」の定義というものがあるのかないのか知らないが、よく言われるところの「物心つく」時期から老年の現在に至るまで、私はいわゆる精神というものに関して大きな変化があったとは実感していない。もちろん、当たり前の日々を重ねる中でそれなりの種々雑多な生活体験を経て、意識するとしないとに関わらず物事への対処の仕方は年齢相応に狡猾になっているとは思う。しかし、それは経験に基づいて何がしかのハウツーのようなものを身に付けたというだけのことであって、それで人格とか精神といった不定形のものが「成長」したとか「成熟」した言えるかどうかはわかりようがない。

連続した変化を時系列で振り返った時に、或る時点間で或る性質や特徴が大きくなったり小さくなったりしていて、その断面標本を並べて我々は何事かわかったようなことを語る。しかし、そこにもいわゆる三体問題や多体問題のようなものがあって、特定の事象だけを取り出して変化の規則性のようなものを見出すことができたとしても、複数の事象の変化を組み合わせると、却って混迷の度を深めてしまうのはよくあることだ。部分最適を積み重ねても全体最適にはならないのである。ゆえに、私個人としては生理的に老化したことは確実だが、精神的に成熟したかどうかは判定のしようがないのである。

家にテレビがなく新聞の購読もしていないので世間一般に比べると世情に疎いはずだが、そうした中にあって、いわゆる「思春期」の人々に関することで話題になるのは不登校とかイジメが多い印象がある。イジメは特定の年齢層だけのことではないし、不登校もそれ自体が問題なのかどうか怪しいところがある。

本当に問題になっているとすれば、おそらくその問題は「みんなと同じことができない」というところにあるのではないか。なぜ「みんなと同じ」でないといけないかといえば、そうでないと当事者が社会というシステムの中で生きていくことができない、と当事者を取り巻く人々が深刻に危惧するからではないか。つまり当事者自体の問題というよりも、当事者を巡る関係性の問題ではないのか。取り巻きが何を何故危惧するか、ということについては一様ではないだろう。それぞれの立場によって「危惧」の中身と深刻さの度合いは様々であるはずだ。

不登校が最初に報告されたのはアメリカで、その次は日本です。ヨーロッパにも最近ちらほら出てきたと聞いています。不登校と一番はっきりした並行関係にある状況は、いわゆる大衆大学の設立—学歴の大衆化です。学歴の大衆化自体は学問の民主化ですから否定すべきことではないのですが、新たな問題が生じることも事実だろうと思います。私は歴史家ではありませんからよくわかりませんが、日本では敗戦、アメリカでは高度成長が崩壊して大恐慌があった後に大学の数が急にふえています。ヨーロッパでは永年大学をつくらなかったのが、この頃ぼつぼつニュー・ユニバーシティーズをつくりはじめていますが、ここ数年ヨーロッパが不況にあえいでいることと関係があるかもしれません。大衆大学は、酷薄な言い方をすれば失業者プールでもありうるわけです。

本書23-24頁「思春期における精神病および類似状態」1979年

社会というものが成立するためにはその成員一人一人が「社会」の為の何がしかの役割を担っているとの自覚が必要だ。「一人前である」という自覚と言ってもいいかもしれない。その前提として、失業者というものが存在していてはいけないのである。職業というのは、個人にとっては所得獲得機会として直接的に生計を支える手段であると同時に社会における自己の位置付けを明らかにするアイデンティティ確立の手段でもあり、為政者の側からすれば、雇用者を通じて個々の被傭者に対する徴税機会をより確実なものにすると同時に雇用関係を通じて被傭者=国民一般に対する統制を図る手段でもある。

その雇用関係から漏れた人々の受け皿の一つとして大衆大学やそれに準ずる教育機関が機能するという側面は否定できないだろう。おそらく、教育機関が、失業に限らず様々な事情で社会の正成員から漏れてしまった人々を受け容れ、学生という身分を与え、職業訓練を施して就業=社会の正成員化を図るという経済的機能を担うようになったあたりから、教育機関の社会でのアジールのような役割が低減し、社会全体の度量が小さくなったということではないだろうか。

大学というところは、何かの「資格」を取って特定の「職業」に就くための職業訓練機関ではないはずだ。学位は資格ではないし、それが何かの職業に結びつく類のものでもない。大学は、一見したところ何の役に立つのかわからないようなことを探求することで、世界や社会の核に通じる原理原則を見出すというような遠大な探求の場であって、世間からは「学者ってぇのは呑気でいいねぇ」と思われるくらいが健全な学問の在りようだと思うのである。即時的に明確な成果物を提示することに拘ると、結局は破壊的なものしか生まれない。ノーベル賞がダイナマイトの発明に由来していたり、原爆開発の主要人物の多くがノーベル賞を受賞しているのは人間社会の現実の何事かを象徴している。

明確な成果を示すことができるというのはやはり大事なことだ。それによって、我々は経済的な実利だけでなく存在意義を確認することができ、そうしたことを通じて安全保障感を確保することができるからだ。

サリヴァンは人間が追求する目的を二体別して、飢え、渇きなど生物体的な「満足(satisfaction)」の欲求と、心理的・社会的な意味での「安全(保障感
)(security)」の獲得維持とする。人間においては後者が前者をしのぐ重要性と緊急性をもっている。これは人間が無力無防備な幼児としてこの世に生まれてきて、自己の生存を周囲の「重要人物(significant person)」、とくに「母親役をする人(mothering one)」の態度如何に依存しているからである。「重要人物」を相手とする幼・小児の「安全保障獲得作戦」の如何とその結果が、後年のさまざまな人格病理と関係してくる。

本書295頁「サリヴァンの統合失調症論」1975年

サリヴァンとはHarry Stack Sulivanという米国の精神科医で、中井の著作に頻繁に登場する。ただ、精神医学界の権威というわけでもないようだ。ま、そんなことはどうでもいい。人間の精神が本当はどういうものなのかなんてことは誰にもわからないだろう。

ハリー・スタック・サリヴァン(一八九二—一九四九年)はアメリカ精神医学界において依然うさんくさい存在であるらしい。

本書274頁「サリヴァン」1981年

で、そのサリヴァンの学説だが、少し長く引用する。

重要人物から強く不承認をうけた心理的傾向は、その活動を意識すると、「不安」という急性の不快感を起こす(サリヴァンは「不安」をそういうものと定義する)。このような心理的傾向はすべて、「自己」の外へ「解離(dissociate)」され、「意識(awareness)」の外で働くこととなる。意識されようとするたびに「不安」が起こり、意識の外へひきもどす。
 結局、「自己」とは、幼少期に重要人物から承認された心理的傾向群の「組織(system)」あるいは「力動態勢(dynamism)」であって、後年までなかなか形をかちえない。社会学者ミード、クーリーらのいうように「自己とは他者の評価の反映である」のはこの結果である、とサリヴァンはいう。サリヴァンによれば、個人の「人格」とは「自己」と「自己から解離されたもの」とから成る。そして「自己から解離された心理的傾向の数・量がが大であればある程、その人が将来精神障害になる傾向が大である」。
 とくに「困難の力動態勢」は通常の、たとえば性欲の力動態勢、親密性を求める力動態勢などとちがって、目的(goal)に達して消失するということがないので、いつまでも続き、いくらでも肥大する傾向がある。これは、昇華、恐怖、代理症(心気症、強迫症、妄想症)、嫉妬、解離、スキゾ的力動態勢などで、生の困難に対処するものであるが、同時に、こういうものが前景に出ている生は潜在的あるいは端的に精神障害的である。

本書296-297頁「サリヴァンの統合失調症論」1975年

要するに、人の精神の健康は重要人物との関係性によって育まれた安全保障感の強度に左右されるということだろう。その重要人物からの承認・不承認は社会での他者からの評価、端的には何ができるとかできないとかいったことに影響を受ける。それが「一人前」になるまで長い時間を過ごす教育機関での評価、端的には学業評価に拠るというのは自然なことのように見える。しかし、それで大丈夫なのだろうか。

しかし、ここで言っておきたいのは、勉強が、発達期の子どもにとって、全く、満足のためでなく、安全保障感確保のためのものになっていることである。
 少し説明しよう。
 満足とは、欲求が満たされることである。満足を求める行動は、快を求め不快を避ける行動であるが、これは本来生の充実の現れであるから、もっともらしい理由などほとんどない。成就すれば満足感が得られ、失敗すれば欲求不満状態に陥る。ノドが渇いた時に一杯の清水を求める行動から、エヴェレストに登ったり、微妙な知的問題を解く行動まで、すべて、同じことである。対人関係にもそれはある。愛や友情はそのようなものであり、フェアな競争関係もそういうものでありうるだろう。
 これに対して、安全保障感を確保するための行動は、「自分は安全に庇護されている」という感じがおびやかされている時に、それを守り、この恐怖をできるだけ遠ざけようとする行動である。理由があり目的があるが、逆に強い喜びの感情を伴った満足感はない。自発的に湧き上がる生命活動の自然の発露ではない。恐怖に対処する意識的な防衛作戦である。

本書62-63頁「ある教育の帰結」1979年

日本の場合、社会に巣立つ前に義務教育だけで9年間、それに高校3年間、さらに大学の数年間が続く。学校は偏差値によって階層化され、その階層が社会人になった後も陰に陽に影響する。

現代の臨床において、宗教がまったく話題にのぼっていない場合のほうがずっと多い。現代の日本においては当然のことながら、宗教が話題に登場する場合は少数例なのである。欧米のごとく、宗教は聞くことを憚る主題でもない。それだけ、傷を負っていないとも言えるが、軽視されているとも言える。現代日本の患者にもっとも聞きにくいのは、実に「学歴」であり、しばしば、非常にぼかした答えとなるか、拒絶される。次は、職業であって、「何々関係」と表現されることが多い。これで見る限り、日本は非常に世俗化された社会であると言えよう。

中井久夫『世に棲む患者』ちくま学芸文庫 308-309頁「精神病的苦悩を宗教は救済しうるか」1989年

世俗化された社会にあって、長い幼年時代を学業評価という実質的に単一の評価基準に晒され、それが重要人物からの評価にも影響を与えるという逃げ場のない中で育った人々が織りなす社会が閉塞するのは当然といえば当然だ。安全保障感を追求した結果が単一尺度に揺らぐ安全とはいえない脆弱な社会を生むというパラドクスとも見える。

思春期に問題を抱えてしまうことの本当の問題点は、当事者にとっては安全保障感の本来的な危うさを知ってしまうことであり、社会にとっては核となる部分の脆弱性が増してしまうことなのではないか。近頃街中でよく見かける風景に、親と思しき大人が幼児にタブレットを与えて機嫌を取ったり、ぐずる幼児を無視してスマホに見入っているというものがある。他人様の家庭の事なのでとやかく言い立てることではないのだが、その親子の間では「重要人物」による承認行為は成立しているだろうか。おそらくそういうことが常態化すると、子供の方は安全保障感を得られぬままに成長するだろう。そんなふうに成長した人ばかりの社会になったら、ただでさえ危うい世界はこの先どうなるのだろう。そう思うと、還暦を過ぎてなんとなく逃げ切った感を覚えてホッとしてしまう。

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