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大野晋 『日本語練習帳』 岩波新書

母語が思考を規定する。本書でも以前に読んだ田中克彦の著作でも、日本語が所謂「民主主義」にはそぐわない言語であることが述べられている。

民主主義の考え、我も汝も、金持ちも貧乏人も、選挙において一票という考え方は、人間の甲乙的体制を基本的前提として初めて成立することだと思います。それに考えを及ぼさずに、人間関係を上下、遠近、親疎を第一にしてとらえ、仲良しクラブの一人として生活することを大事にする日本社会をそのままにして、いわゆる民主主義が根づくだろうか。そんなことも問題になると思います。

164頁

 ことばは誰でも話せるという点で人は対等であるが、それを書く段になると、決定的なサベツが生じる。(略)
 このようなわけで、漢字語の多用は、ことばの民主主義に反する度合がより高く、ことばの使用に関するサベツを助長するおそれがある。
 二十いくつか知っていれば何でも書けるアルファベート文字が、ヨーロッパに科学と民主主義を育て、人間を解放する上で、どれだけのはたらきをしたかは、いくら強調してもしすぎることはない。

田中克彦『差別語からはいる言語学入門』ちくま学芸文庫 2018年12月10日第三刷 48-49頁

上にある「人間の甲乙的体制」とは契約書上の当事者間の関係を指す。一般に契約書では契約当事者を「甲」「乙」という代名詞で表現し、契約外の関係性と一線を画している。「甲乙的体制」が意味するのは、その「契約」という限定された場における公平性公正性を指している。田中の方は、文字表現の知識量が社会的地位と関係しやすいということを述べている。ことばの能力というものは識っている漢字の数とはほとんど無関係なのだが、その漢字の識字率が学歴や各種資格試験、また、それらと関連した人々の偏見などから、社会階層に関する認識と無関係ではない現実がある。

アルファベット言語を母語とする集団でも、そのアルファベット語をきちんと書いたり読んだりできるかできないかの違いは大きいし、現にそういう人々が暮らす地域でも差別は起こっている。私自身、久しく外資系企業を渡り歩いて糊口を凌いでいるのだが、その組織の本社の立地が英語圏でなくとも社内公用語が英語であれば、英語に関してnon-nativeとされている人々は端から「正しい」英語を話したり書いたりできないとされることがあり、それを表向きの理由に不当な扱いを受け易いと感じる。実際に、あの感染症が世界中に蔓延したときに、アルファベット言語の国々は科学と民主主義の基盤の上に立って公平を維持したと断言できるだろうか。

日本語の大きな特徴の一つは人称代名詞が多いことだ。これは敬語の体系とも深く関係する。例えば英語ならば「あなた」と「わたし」は「you」と「I」だけであり、他のヨーロッパ諸語も同様だ。しかし、日本語はそうではない。これはつまり、人間関係が関係当初から複雑に規定されるということでもある。確かに、身の回りに社会的地位、年齢、組織への加入年次、組織内での細やかな地位の差異、その他どうでもいいことで相手に対する言葉遣いをコロコロ変える人が少なからずいる。

 こうした日本語社会の、相手はウチの存在かソトの存在かという意識は、いつも細かくはたらいて、人々は非常に敏感にそれに反応しています。また、相手を自分の上の存在と扱うか下と見るかということも重要です。その認識を言葉の使い方の上に具体化する仕方、それが日本語の敬語の体系です。その人間関係のとらえ方に、はっきり反応し適応しないと、即座にあの人は常識がない、モノを知らないと仲間外れにされます。

154頁

おそらく、そのウチとソトの意識は大野が本書を書いた頃から大きく変化している。大野の意識自体が既に時代遅れになっていたかもしれない。それくらい、日本語を取り巻く環境は目まぐるしく変化していると私は思う。ここで自分の現状認識を書き始めると取り止めがなくなってしまうので書かないが、敢えて一言で言えば意識の焦点深度がかなり浅くなっていると思う。

人には生き物として当然に生存欲求があり、中途半端に知能があるばかりに、姑息、いや、巧妙に工夫を凝らして我欲の充足を図るものである。今やこうして世界中が市場原理と資本の理論で動いている現実を目の当たりにすれば、もはや母語の差異など取るに足らないことなのかもしれない。高々数百年の「歴史」しかない急拵えの移民国家が数量表現を頼りに急速に世界における確固たる地歩を得たのは、人間社会において言葉よりも確かなものがある証左と言えよう。

日本も開国後、欧米列強に対抗すべく拡張主義的な政治や外交に走ったのは周知のことだ。殊に満洲への進出が現代に至るまで影響を残している。資源に乏しい後発国が先行する列強に対抗するには、それこそ「工夫を凝らして」必要の充足を図らなければならなかった。流石に無茶は通らないものだが、そうとばかりも言い切れないところもある。以前にも書いたが、戦後においてもこの国の中枢は満洲利権でのし上がった人々が大きな位置を占めていたし、現在もそれは続いているのかもしれない。

それはさておき、18世紀建国の移民国家が、世界中に植民地を展開した英国の国語を公用語として、その後の国際社会での覇権確立に至ったことと、母語人口は決して少なくないながらも、東アジアのローカル国家が広域言語国家に対抗を試みて失敗したという事実は、言語という点からもっと考察されて良いのではないかと思う。

俄拵えの移民国家とは言いながら、そこには移民の出身地とは違った独自の文学が生まれる。一応まだ言葉は人間にとってやはり何かしら意味はあるということだろう。人類史においてホモ・サピエンスを特徴付けることの一つは言語能力にあるらしい。しかし、「進化」は止まらない。その特徴がこの先も永久に特徴であり続けるかどうかはわからない。「進化」の結果、言語能力が衰退することがあったとしても何の不思議もない。

ホモ・サピエンスの持つ言語能力に関係すると言われているFOXP2遺伝子を取り囲んでいるゲノム領域では、ネアンデルタール人由来のものがまったく見られないことが判明しており、そこから言語に関する遺伝子領域が、ネアンデルタール人と私たちの違いを生み出している可能性も指摘されています。

篠田謙一『人類の起源』中公新書 2023年2月10日11版 65頁

 突然変異は世代を経るごとに蓄積しますから、同じ地域に長く暮らすほど個体間の遺伝的な違いは大きくなります。ホモ・サピエンスは他のどの地域よりも長くアフリカ大陸で生活していますから、アフリカ人同士は、他の大陸の人びとよりも大きな遺伝的変異を持っています。実際、人類の持つ遺伝的な多様性のうち、実に八五パーセントまではアフリカ人が持っていると推定されています。一方、言語もDNA同様、時間とともに変化していきます。そのスピードはDNAの変化よりもはるかに早く、一万年もさかのぼると言語間の系統関係を追えないほど変化するといわれていますが、同じような変化をすることから、言語の分布と集団の歴史のあいだには密接な関係があることが予想されます。

篠田謙一『人類の起源』中公新書 2023年2月10日11版 87頁

大野は日本語の祖語をタミル語に求める学説を唱えていたが、最近のDNA解析からそれを裏付けるかのような研究が明らかになっている。ただし、大野は南インドから海沿いに言語集団が移動してきたことを想定していたようだが、DNA解析によれば、南インドからチベットを経て大陸から日本列島に到達しているらしい。このことは海上移動を否定するものではなく、日本列島への人類到達ルートはいくつもある。何事も道は一つではない。

本書は『日本語練習帳』という書名が示す通り、日本語の理解と表現を深めるための教科書のようなものだ。だからといって、その通り教科書のように読まなければならないものでもあるまい。そう思って、読んで考えたことを書き殴ってみたら、いつにも増して支離滅裂となってしまったので、ここで筆を置く。

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