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蛇足 『庶民の発見』

1997年の今時分のことだっただろうか。仕事で廣済堂印刷株式会社の上場前施設見学会に参加した。同社は現在の株式会社広済堂ホールディングスの前身のひとつで、同年8月5日に東京証券取引所の二部市場に株式を公開した。社名が示す通り主力事業は印刷業だったが、施設見学会の会場は代々幡斎場だった。会社側の意図は今もって理解に苦しむのだが、その時の説明内容に照らして想像するなら、利益がどうこうということよりも社会に必要とされることを率先して行なっています、ということを訴えたかったのだろう。主に説明をされたのは当時の廣済堂印刷の会長であった櫻井文雄(義晃)氏と記憶している。

説明の中で強調されていたのは岸信介とのつながりだった。「岸先生からのお話で」とか「岸先生に」何かをして「差し上げた」という言葉が頻繁に出てきた印象がある。代々幡斎場を運営するのは子会社の東京博善株式会社である。斎場の経営も損得ではなく、そういう要請があったと言いたかったのかもしれない。たまたま同年6月に勝新太郎を荼毘に付したのがこの代々幡斎場で、施設の説明の中で、「先日、勝新太郎さんを焼いたのはこちらの窯です」と言われた。「表の飾りは少し変えてありますが、窯そのものは他のものと同じです」とも言っていた。冠婚葬祭でよくあるランク付のことだが、そうしたものに関係なく窯自体は同じものということだ。その窯についても裏側に回って見学して説明を受けた。煙が出ないというのが特徴なのだが、都内の住宅密集地に立地して煙を出すわけにはいかない現実もある。同社が運営する斎場の中で、町屋斎場は京成本線の車窓から見ることができるが、代々幡も似た感じの構えだ。上場予定企業の施設見学会としてはかなり風変わりなものであったので、いまだに記憶に残っている。

人を動かすのは、結局のところはカネなのだろうか。今の世間は共同体が崩壊して個人がバラバラに存在するようになっているので、バラバラの個人同士を繋げるものがカネしかないのが現実ではあるのだろう。ナントカ先生はカネで権威と権力を維持し、そのカネを提供する側はそれによって利権や利得を得る、という個別具体的な名前を聞かされると自分とは無縁のことのように感じるが、その権力や利権の流れの中に人々の暮らしもある。感じるか感じないかというだけのことだ。

先日の暗殺事件に関連して或る宗教団体の名前が言及されている。Wikipediaで検索して、そこに書かれていることを追ってみたら、こんな記述があった。

文鮮明は自由民主党安倍晋三元総理大臣の祖父である岸信介と盟友であり、1950年代から日本の政界と協力していた[34][48]。岸の自宅付近には統一教会の施設が存在し、そこで岸は交流会や講演会などを行っていた[49]神田外語大学民族主義運動の専門家であるジェフリー・J・ホールは、統一教会は岸信介の時代から日本の保守政治に関与してきたと指摘しており、国際勝共連合などと共に日本の反共産主義運動右派運動といった、日本の右傾化の歴史に根深く関与してきたとしている[9][26]

Wikipedia

ああいう物騒な事件に関係するようなことは何も知らないので、興味の向かうままにネットで検索をした。そこに書かれているのがどの程度信頼に足るものなのか知らないが、特に驚くようなことには出会わなかった。岸信介は満州に赴任してから大きな額のカネを動かすようになったらしい。岸は満州を去るとき、こんな言葉を残しているそうだ。

「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」

Wikipedia

満州で何があったのか、というような幅広のことはネットで検索してどうこうなるものではないだろう。岸と時期は重ならないが、文鮮明を巡るキーパーソンの一人である朴正煕も満州国軍の将校として終戦を迎え、そこから韓国国軍に加わり、ああなった。

上の引用にある「盟友」がどのような「盟友」なのか、どのような経緯があってそうなったのかということについては検索できなかった。Wikipediaには以下の記述がある。勝共連合に関連して、蒋介石とも親交があった、とある。

国際勝共連合を通じて統一教会教祖文鮮明との交遊は晩年まで続いた。
文鮮明が1968年(昭和43年)の1月に韓国に本部を持って発足した世界反共連合を同年4月に日本支部が設立した際、岸信介氏がこれに加わった。[134]
1974年(昭和49年)5月7日、東京の帝国ホテルで開催された文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」では、岸が名誉実行委員長となっている[135]。岸を名誉実行委員長とする「希望の日晩餐会」は、1976年にも開催されている。[136]
1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際[137]、米国で脱税被疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送った[138]
東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の岸邸隣に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「国際勝共連合」本部に足を運んだ[139]

Wikipedia

ついでながら、岸は創価学会の戸田城聖とも付き合いがあったらしい。

宗教あるいは宗教心は人々の暮らしに根付いている。特定の信仰が無い人でも亡くなれば葬式をあげ、子供が生まれればお宮参りに行く人もいるだろう。七五三の時期には神社は賑わい、初詣で大勢の参拝客を集める神社もある。日本各地に残る祭りは宗教行事に由来するものが多い。但し、古来の行事はそれに関わる共同体の構成員が総出で、あるいは輪番で執り行うもので、宗教専従者が一般的になるのは鎌倉時代あたりからだそうだ。奈良や京都の古寺には朝廷ゆかりのものが多いが、それは政教一体の時代のものであって、一般大衆の信心とは別物だと思う。今でも古い集落で一番大きな建物が神社仏閣というのは少なくないが、現実の生活の不確実性をいやというほど経験していればこそ、神仏の加護を無視するわけにはいかないという想いがそういう具象を求めるのだろう。

庶民の世界ではこうした窮迫はあたりまえのことであった。だから腕っぷしのつよいものは盗賊などして生計をたてたのである。しかし、自らにそれほどの力がなければ、何ものかにたよらざるをえなかった。神仏に霊力があるものならば、祈ってその利生にあずかろうとする者も多かった。『日本霊異記』にはじまって、『今昔物語』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』などの多くの説話文学に神仏の利生談の多いのは、仏僧や神に仕える者たちが、庶民の気をひいて、貧しい者たちの懐をねらおうとしたためであろうが、『今昔物語』に見える長谷寺観音にもうでて利生を得た男の話は、そのままといってよいほどのかたちで『宇治拾遺物語』にものせられており、それがさらに「藁しべ長者」の名のもとに現在日本各地にひろく分布しているほど、民衆にも魅力があった。まずしい者が神仏にいのって財産を得られるというのであれば、これにすがるほどよい招福の方法はない。

『庶民の発見』37頁

祈るのは、やるべきことをやり尽くした後のことであるはずだが、人は易きに流れる性向を持つ所為なのか、善良な者が言葉巧みに丸め込まれる所為なのか、順番があべこべになって貧困に拍車がかかることもある。いわゆる「うまい話」というものは幻想なのだが、貧困に喘いで気持ちまでが弱くなったところに巧みにつけ込む輩の技が一枚上手なのか、信者が低所得者に偏っている宗教もあるらしい。

そうした信者層をうまく取り込めば、政治家にとっては安定した支持基盤にもなり得る。「民主主義」は数がものを言うのである。多数派が正しい、という論理を前提とする仕組みの下では、政治は宗教と結びつくことになる。また、祈ることや信心の表現として金品の供出が要求されるのなら、信者の所得や財産の多寡と宗教の集金力は必ずしも比例しない。貧困層の集団が多額の資金を供給するのは決して非現実的なことではないのである。

ところで、安倍晋三と岸信介の関係をWikipediaでの記述に従って図にしたら下のようになった。図には書ききれなかったが、岸信介の長男である信和の配偶者である仲子の系譜を辿ると長州閥の重鎮、井上馨に繋がる。そこから満州で岸が関わる鮎川義介に繋がる。満州を巡っては「弐キ参スケ」と呼ばれる軍・財・官の5人の実力者が権益を左右したとされ、岸はそのひとりに数えられているが、この5人のうち岸を含め3人が後になってみれば姻戚関係ということになる。日本の政治はいまだに薩長なのかと思ったが、明治維新からはまだ150数年しか経っていない。「維新」という言葉を含む政党名の団体もあるが、人々の暮らしの中で「明治維新」は実はまだ終わっていないのかもしれない。

Wikipediaより筆者作成 傍線のある名前はWikipediaに掲載あり

「弐キ参スケ」は以下の5人。

東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長)
星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官)
鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)
岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)
松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)

Wikipedia

見出し写真はJR八高線の丹荘駅(埼玉県児玉郡神川町大字植竹)。2019年に駅舎が建て替えられているので、今はもっとさっぱりしているようだ。Wikipediaによれば、文鮮明は1978年に来日したとき、埼玉県神川村(現:神川町)で国際合同結婚式のため1,600組の指名婚約を行なったという。それがどこで行われたのかは知らない。神川町には武蔵二宮である金鑚神社が鎮座する。写真は2016年12月24日に参拝した折のものだ。駅前のタクシー会社からタクシーで神社に向かい、帰りは1時間ほどかけて歩いて駅まで戻った。

金鑚神社の多宝塔 2016年12月24日撮影

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