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網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』岩波現代文庫

本書では「東日本と西日本」という章を設けている。宮本の方でも明確に東西を分ける境界のようなものは語っていないが、山とか河川のようなはっきりしたものではなく、集落の分布の濃淡のような連続的段階的変化を俯瞰しての分類だろう。日本というクニの成り立ちとしては、九州から近畿にかけての地域を中心に展開し、そこから東へと拡大した。西日本においても「神武東征」といった神話が示すように権力の広がりとして西から東へという流れがある。また、鎌倉幕府を開いた源頼朝から大政奉還の徳川慶喜まで実体としての権力の筆頭者は朝廷から「征夷大将軍」という令外官りょうげのかんに任じられているが、「征夷」は東日本の土着勢力の総称である「蝦夷」を征する将軍という意味であり、古くは坂上田村麻呂に代表されるように、本当に蝦夷えみし討伐の責任者の役職だった。東西という点で東は未開地という印象がある。

私は遊びや仕事で西日本を訪れるようになったのは社会人になって以降のことで、それ以前は身近な人間関係は東日本でほぼ完結していた。そういう点で私の世界、私の「日本」は東日本、さらには関東が基準になっている。それが「西」を意識するようになったのは、二十代後半にイギリス、マンチェスター大学のMBA課程に留学したことがきっかけだった。私の学年(総勢約120人)には7人の日本人学生がいたのだが、このうち5人が関西の出身だった。残り2人のうちひとりは帰国子女で、私だけが東日本の出身だった。

大変な2年間だった。生来の無能に加えてそれまで学業というものときちんと向き合ったことがなかったので要領がわからない。参考文献を挙げられれば、それらを一通り読まないといけないものだと思ってしまうし、宿題は常に何かしら仕掛かりになっている。学期中は満足に布団で寝た記憶がない。その上にいくつものグループワークというものがある。グループ内での議論では相手が何を言っているのかわからない。語学力の問題は当然あるのだが、なぜそんなことが議論の対象になるのかという価値観的な部分がわからない、議論の作法もわからない。要するに彼の地で学業を修める上での土台が自分に無いのである。程度の差こそあれ、それは帰国子女以外の他の5人の日本人にも似たようなところがあり、自然に互いに協力して揃って修了を目指すことになった。自分としては人付き合いは得意な方ではないので、この時の付き合いが自分史上後にも先にもない濃厚な人間関係になった。

その自分にとっては新鮮な濃厚さの対象が関西の人々であったというのも何かの縁かもしれない。印象深かったのは言葉に対する敏感さだった。私にしてみれば、どれも関西弁で一括りなのだが、彼らにしてみれば、やれどこの出身だのどこの言葉だのと話の中で当たり前のようにぽろっと漏らす。その「ぽろ」がこちらにしてみれば「ん?」なのである。そういう疑問を比較的話しやすい相手に尋ねてみたりもしたのだが、その京都出身の彼は自分なりの分析を交えて語るのである。そこでかえって疑問が膨らむ。「そこそんなに大事なの?」と。このあたりのことは、どれほど説明を受けても、私には実感として納得できるようにはならない気がする。

本書を読んで不意にその言葉の地域差のことを思い出させる箇所に遭遇した。

私が最初に被差別部落について明確な認識と経験をもちましたのは、別の機会にもふれたことがありますが、一九四八年、大学二年生のとき、宝月圭吾先生に山城国久世荘の調査に連れていっていただいて、京都の南郊を訪れたときです。たまたまその地域の被差別部落に古文書を持っている家があるというので、永原慶二さん、稲垣泰彦さん、杉山博さん、小沢圭介さん、宇野脩平さんと私の七人で、被差別部落のおそらく近世には庄屋だったと見られるお宅に伺い、文書を見せていただきました。宝月先生はそのお宅にあがって行かれるので私も何も考えず、お座敷に上がって、文書を拝見し、出されたお茶をのみ、たしかお菓子をいただいて宿に帰ってきたのです。
 帰ってから、宇野脩平さんが、「網野さん、きょうはたいへんなことだったですよ」と言われるのですが、私はまったくポカンとしていたのです。それに対して宇野さんは「宝月先生は大変にえらい先生ですね、あのお家の方は、どんなにきょうのことで喜んでいらっしゃるかわかりませんよ」と言われて、「あなたは本当に何も知らないのですか」と驚いた顔をされて、あれこれ被差別部落についての話をして下さいました。
 「あのあたりだったら、家の座敷へも上がらないのが、たぶんふつうだろうし、出されたお茶をのんだり、菓子などを食べたりするはずがないのに、宝月先生はごく自然に家に上がられて、飲食して、帰って行かれたけれども、たぶんこのことはあそこでは伝説に近い美談になるのではないでしょうかね」と宇野さんはそのときに言っておられたと思います。実際その通りだったらしいですね。大分のちになって、戦後、東大の先生がやって来て被差別部落の家へ上がって、平気で菓子を食べて行ったという話が、そのへんの地域で評判になったという話を聞きました。

150-152頁

このようなことがあるなら、相手がどの地域に居住しているか、どの地域の出身かということについては敏感にならざるを得ないだろう。その留学先の一年上の学年には関西言葉を全く感じさせない話し方をする京都出身の人がいた。彼は大学時代にNHKのニュースを録音して独自の教材を作成し、それを毎日聴いて自身の言葉を徹底的に改造したのだという。彼曰く、言葉でどうこうということから一線を画したいとのことだった。留学先の仲間との間で差別のことが話題になることはこれまで無いのだが、言葉の地域差ということから一歩踏み込んで、なぜそういう差異が重要なのかということについて問いを進めていたら、或いは何か興味深い話を聞くことができたかもしれない、と今になってみれば思うのである。

東西の差異について、本書で網野は木下忠の論文集『埋甕』から「えな」についての論考を紹介している。妊娠中、胎児は母体から胎盤などを通じて栄養を得ている。出産すると、母体にはそうしたものが不要になるので娩出される。この娩出されたものを「えな」と呼ぶ。この「えな」については世界各地に興味深い話があるのだが、日本では「えな」の処理が東西で異なるという研究がある。その例として木下の論文の要旨が引かれている。

化学分析で証明できるようですが、そうした成果にもとづき、民俗学の研究をも採り入れられ、「えな」を埋める習俗に、明らかに大きな地域的差異があることを指摘されているのです。その一つは、主屋とは別に建てられた、産屋の床下に夫がもぐって行き、犬などが掘り出したりしないように深い穴を掘って埋めたり、遠い山や川に持っていって捨てるという方式です。これは「えな」を穢れたものとして遠ざけるやり方ですが、これに対して家の出口、あるいは、たくさんの人の通る辻などに埋める方式があるのだそうです。これは「えな」が人に踏まれると、赤ん坊が元気に育つという考え方にもとづく習俗ですが、このように異なったふたつの民俗があることを、木下さんは明らかにされ、埋め甕は後者の習俗につながるとされています。木下さんは、必ずしも「東と西」とは言い切っておられませんが、前者の、穢れを遠ざける民俗は弥生文化、後者の、えなを人にふまれるところに埋めるのは縄文文化と言われており、大ざっぱにみて、東日本に後者が多く、西日本に前者が多いと言っておられるのです。ただ、海辺の村には前者のような民俗が広くひろがっていると指摘されています。これは西からの海民の移動を考えれば十分理解しうることだと思います。

154-155頁

出産後に胞衣が娩出される。その生理に基づく単一の現象に対し正反対の民俗が現れるというのは興味深い。出産という大ごとではなく、もっと身近で雑多なことも人によって見方が違うというのは当たり前にある。だからこそ、広範に多くの人が暮らす社会には統一的な規範とそれを遵守させる仕組みが必要なのであり、しかもそれらが容易ならざるが故に、世に大小様々な形態の紛争が絶えないのである。「穢れ」という感覚の差異は社会制度の差異にもつながる。

 さらに東と西に関連してふれておきたいのは、社会の質の差異と確実に関連して、平安末期ごろから西国と東国で制度上の違いがはっきりとあらわれてくることです。
 そのころに確立した荘園公領制という土地制度が一応、日本国の国制になっていますが、そのあり方は西国と東国では非常に違っています。それだけではなく、西国では職能民の有力者、例えば、海民、廻船人、鋳物師集団などの有力者が、神仏・天皇の直属民となり、神人じじん寄人よりうど供御人くごにんとなっています。供御人は「神聖王」として神仏に準じられる天皇に直属する形をとっていますが、こうした神人、供御人はその職能によって神仏、天皇に奉仕するかわりに、平民、百姓と区別され、どこの海へ行っても自由に漁ができる、あるいはどこの関所でも関料を負担せず自由に通過できるなどの特権を保証され、職能に即して広く活動しています。
 (略)
 京都の王朝は、十二世紀末にこれを制度化します。国ごとに神人・供御人・寄人の、交名きょうみょう—名簿をつくらせ、定員を定め、新たに神人や供御人になる人が一定数以上に増えないように、統制を加えることにしたのです。保元元年(1156)の王朝の法令、公家新制に神人交名を作成することが規定され、神社や寺院も、神人・寄人の名簿をつくれという命令が出るわけです。
 ところが、この制度は東国には及んでいないのです。この点に気がついたときには、大変不思議なことだと思ったのですが、やがて東国に鎌倉幕府が成立しますと、将軍に対してその従者は御家人といわれるようになります。そして東国の御家人たちは頼朝にじかに「名簿みょうぶ」、自分の名前を書いた文書を捧げ、頼朝と主従の関係を結んだのです。将軍との間に主従関係を結んだ侍身分の人びとが御家人といわれました。しかし西国では、国ごとに守護が御家人になる侍の交名—名簿をつくり、鎌倉幕府にこれを注進して、将軍と主従関係を結んだことにしました。これは先ほどふれた神人・供御人の交名注進と基本的に同じやり方ということができます。

157-159頁

穢れに対する感覚は恐れ・怖れに対する感覚にも通じる。権力に対する姿勢は人智を超えたものに対する姿勢にも通じる。ざっくり言ってしまえば、他者との距離感がそれぞれの共同体での経験の蓄積によって異なるということだろう。大陸や南方の海域との交流が相対に活発で人口の集積が先行した西国と、相対に辺境で先行地域の価値観から距離があった東国とでは既成概念から外れたものと遭遇した際の姿勢が対立的になるか融和的になるかという心理の初動の差異もあるだろうし、また、そうした差異はそれぞれの共同体の余裕、つまり生産力・経済力によっても左右されたであろう。

日本列島はプレートの辺縁に南北に伸び、大陸と海洋の境界に位置し、天変地異に事欠かない。活火山が広範に分布することで大地は火山灰質で地味に難がある。よほどの工夫と労苦を重ねなければ暮らしていけなかったはずで、他所から見て積極的に移り住みたいような場所ではなかっただろう。それ故に世界的にも特異な言語集団が構成されて今日に至っているのではないか。

しかも、それがよりにもよって高い地力と保水性のある土地が要求される稲作を経済の中核に据えた共同体を作り上げた。稲は熱帯由来の植物で日本での定着にはだいぶ困難があったはずだ。宮本の著作にも稲作を生業にしながら自家用には粱や稗を栽培していたことを示唆する記述がある。

稗は凶作の年にも割合よくできたし、虫もつかず、何年おいても味がかわらぬので、郷倉の貯蓄は稗でやりました。(中略)まァ百姓というもんはヒネからヒネへくいつなぐのがよい百姓とされた。それだから、一生うまい米を食うことはなかった。そうしないと飢饉年がしのげなかった。

宮本常一『忘れられた日本人』—「名倉談義」 70-71頁

土地あるいは共同体の経済力とそこでの成員間の関係性との間に関係がないはずはないのである。人間の経済が農業に軸足を置くようになれば、その共同体は主たる作物の栽培と収穫のサイクルに適合した在り方にならざるを得ない。倫理も言語も民俗もそこから自ずと導き出されるはずだ。

日本の場合、その地理からすれば東西は南北でもある。つまり、東西の差異は気候や植生の差異でもある。しかも国土の約7割を山岳地が占めており、その山岳地には多数の活火山があって、総じて地味貧弱だ。その自然条件の多様性が大きなところに外来の単一作物を基軸にした統一国家が形成される。こんな不思議なことがあるだろうか、と思うのである。今でも外来のものを無思慮にありがたがる風があり、「出羽守」がちょいちょい顔を出す。世間では無邪気にヒトは皆同じ価値観を持っているかのような前提で「人権」だの「正義」だのが語られ、対立する相手はカネとチカラで黙らせようとするのが常識であるようにすら見える。尤も、それは世界的にも標準的なものなのだろう。世に紛争は絶えず、自分に火の粉がかかると大騒ぎするが、そうでないと場当たり的な「援助」とか「支援」とか「仲介」でお茶を濁して「やることはやりました」といった風情に収まる。

たまたま今年の初めにこのnoteで戦後の総理大臣の在職期間を出身選挙区で見ると西日本が約6割を占めるという話を書いた。このとき明治維新を先導した薩長土肥が新政府内部で地歩を確立して、その後のこの国の歴史に大きな影響を与えていると思ったのだが、それは表面的なことなのだろう。おそらく、その表層の背後に人々の意識の奥に潜む社会構造の認識が何かしら作用している。「構造」とは言いながら、それは固定的なことではなく、その差異が或る限界を超えることで、上下左右が入れ替わるような大きな動態変化が起こるのではないか。我々の世界は止まることがない。その変化に規則性のようなものがあるのかないのか知らないが、何かしら蓄積や沈殿するものがあれば、それが何かの拍子に爆発的な転換を繰り返して今があるのではないか。今が今のままであり続けるわけはない。そうは言っても、過去の延長に今があり、その先に未来があると暗黙のうちに思い込むことで心の平穏を得ているというのが現実だとは思うのだが。

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