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エーリッヒ・ケストナー著 酒寄進一訳 『終戦日記一九四五』 岩波文庫

奥付に「2022年6月15日 第1刷発行」とある。原書の発行は1961年だ。中に書かれているのは1945年のドイツ降伏前後のことなので、元になっているものがどうであれ、本物の日記ではなく出版物であることには注意しないといけないのかもしれない。それにしても、なぜ今頃になって1945年の日記が発売されたのだろうか。

エーリッヒ・ケストナーは児童文学の作家として有名で、子供の頃の我が家にも『飛ぶ教室』があったのは覚えている。従兄弟からのお下がりだったと思う。しかし、それを読んだ記憶はない。読まないまま、どこかへ行ってしまった。本書はたまたまアマゾンで「おすすめ」として上がってきたので、ポチッとやっただけだ。以前に内田百閒の『東京日記』『東京焼盡』、山田風太郎の『戦中派不戦日記』、渡辺清の『ある復員兵の手記』といった「日記」類を購入した記録があるのでAIが勧めてきたのだろう。いずれも本書同様、本当の日記ではなく、読み物として編集したものだ。そんなことは百も承知で、日記という形式が醸し出す臨場感につい引き込まれてしまう。

日記は芸術作品たらんとすればするほど日記ではなくなる。技巧を凝らすのは禁じ手だろう。自分の身に起きたことを記録する者がめざすのは、自分の記録係であること以外に考えられない。まさに過ぎたるは及ばざるがごとしだ。

11頁

日記が魅力的なのは、重要なものとそうでないものが混在しているからだ。時系列で生じる混乱は致し方ない。順序に従うものであって、そこに手を加えることは許されない。その都度、重要と思われることを、有象無象も含めてすべて、順にあるべき真の場所に書き残す。それを書き残さないのは情報操作に等しく、隠蔽だと言える。だから、いまは書きすすめるしかない!有象無象万歳!

256-257頁

内田は『東京焼盡』のなかで、戦時下の窮屈な暮らしに加えて空襲の恐怖もあったはずなのに、酒の心配ばかりしている。もちろん、戦後何年も経ってから出版目的で編集された日記なので、実際はどうであったのか読者にはわからない。しかし、勝手な想像だが、実際に残された日記や家事の記録の類に酒の配給のことが細かに記されていたのだろう。それと内田の「リアリズム」がそういう「日記」に仕上げたのだと思う。

あるとき百閒は、辰野隆との対談で、こんなことを言っていた。
- 辰野さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文みたいなものを書くとしても、行って来た記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合わしたものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。(「当世漫話」)

内田百閒『立腹帖』ちくま文庫 294-295頁 穂苅瑞穂による解説

戦時下であるとか、空襲の恐怖があるとか、人は追い詰められた時にその人の了見を曝け出す。最近も、感染症が流行して近年稀に見る「緊急事態」に直面したが、そこで身近な人の思わぬ姿を目の当たりにした経験をした人も少なくないだろう。それもまた「リアリズム」だ。

ケストナーはナチス政権誕生以前からファシズムに対して批判的な言動を繰り返していたため、ナチス政権が成立するとすぐに執筆活動を禁止され、それまでの出版物が悉く禁書扱いとなった。しかしそうした圧力に屈することなくドイツに居続け、偽名を使って宣伝省の仕事を請け負うこともあったらしい。ナチスにとっては反体制派の筆頭のような人物で強制収容所に入れられても不思議はないのに、戦争を生き延び、戦後は西ドイツ文壇の中心的人物として活躍した。それほど誰にも代えがたい文才に恵まれていたということかもしれないし、当然に人間関係には恵まれていたのだろうし、体制側の方にも表向きは迎合しながらも反体制派に対してシンパ的な支援を惜しまない人々が少なくなかったということかもしれない。つまり、生きる現場というのは正解対不正解で律し切れるような単純なものではなく、表面の現象の裏に正反対であるかのようなあれこれがあり、そのまた背後に言語化不可能なドロドロがあり、その奥には……というようなたいへんフクザツなものだ。尤も、そんなことは誰にとってもわかりきったことだと思うのだが、世間はわかりやすさに異様に執着する。まるで理解力が蒸発しているかのように。それが世間の「リアリズム」なのだろうが、それもまた不気味に映る。

本書は1945年2月7日から同年8月2日までの日記と1960年の「追記」で構成されている。本書に関して有名な文章は「追記」の方に記されている。

太陽系と渦巻銀河の年代記から見たら、地球の住民がみずから選んだ没落などたかが知れている。人間が人間でなくなるのなら、太陽のまわりを楕円にまわる小さな球体など、どれほどのものだろう。些事である。不快でぞっとする。大きくなりすぎた些事なのだ。「ああ、愛する天よ!」と叫ぶのをやめて、わたしといっしょに言おう。「ああ、愛する地球よ!」
1945年を銘記せよ。

342頁

今となっては誰も1945年のことなど覚えちゃいないだろうし、そのうち1945年以後に生まれた者ばかりになるのだろうから「銘記せよ」と言われても……。現に私は知らない。それに、地球の人口が1945年よりも後に生まれた者だけになるまで、地球が今のままあるかどうかもわからない。

1945年以降も世界を揺るがす戦争は何度も起こっている。朝鮮、ベトナム、中東、湾岸、ユーゴスラビア、ウクライナ、他にも多数。しかし、「世界大戦」と呼ばれるほどのものは、やはり1945年が当座の最後だろう。先般ウクライナで始まったときは大騒ぎになったが、まだ戦争が終わっていないのに、「ゴールデンウィークを迎え、空港は海外で休みを過ごそうという人たちで混雑」しているらしい。平和で暢気な「リアリズム」だが、やはり不気味な世の中だ。

快楽は良識よりもしぶとい。船が沈むのだ。信仰問答などしている場合ではない。極地探検家はいよいよとなれば同行している科学者を食べるという。ひどい時代には、行状もひどくなる。

23頁

ふと、思い出したことがある。1983年9月1日にニューヨークからアンカレッジ経由でソウルへ向かって飛行中だった大韓航空007便(ボーイング747-230)が、領空侵犯を理由に樺太上空でソ連防空軍の戦闘機により撃墜される事件があった。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡、日本人も28人が犠牲になった。当時、ニューヨークと日本各地を結ぶルートして、この便を使ってソウルから日本への便に乗り継ぐ方が安価であったこともあって、日本人の利用が比較的多かった。この事故で、私が通っていた大学近くの書店の店主が亡くなり、その店は閉店した。

それで1945年2月7日から同年8月2日までのことだが、本書だけではよくわからない。ナチスが政権を掌握するのは1933年だが、ケストナーの戦前最後の自身の名義での著書の公刊は1935年の『Emil und die drei Zwillinge(邦題:エーミールと三人のふたご)』のようだ。本書によれば1945年2月7日から3月9日までの日記はベルリンで書いたことになっている。ケストナーは旧知の映画プロデューサーであるエーバーハルト・シュミットの計らいで、宣伝省からの依頼で制作する映画の台本作家として、その映画のロケ隊に同行する形で3月15日にマイヤーホーフェンに移っている。この日記はその1週間後3月22日から再開している。その後5月8日にドイツが無条件降伏をして進駐軍がやってきて勝手な移動ができなくなる。マイヤーホーフェンには当初アメリカ軍が進駐した。村の方もナチスや宣伝省の威光を失ったロケ隊を居候させておく理由がなくなり邪魔者扱いされるようになるが、移動できないものは仕方がない。マイヤーホーフェンから事務的な用件などでミュンヘンへ出かけることはあり、その折などに新たな住処を探すのだが、焦土と瓦礫の山と化した町にそんな場所があるはずもない。ようやく7月になってミュンヘンとその周辺でのトラック輸送の許可が下り、とりあえず荷物をまとめてミュンヘンを目指す。車がバイエルンに入ったところで、シュリアーゼという小さな村で休憩をする。そこにはケストナーのパートナーであるルイーゼロッテ・エンデルレの妹夫婦が暮らしている。そこで話をつけて、シュリアーゼに滞在することになる。この日記はそこで8月2日に終わる。

1945年2月のベルリンは既に戦場になっていたが、連合軍側の都合でベルリンを落とすのはソ連の役割と決まっていたようだ。このため、ベルリンの人々の間では大空襲の噂で持ちきりだったそうだが、少なくともケストナーがベルリンに居る間は噂のままだった。ソ連軍がベルリン包囲網を完成させるのは4月25日である。

4月29日、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーが西側連合国に対し降伏を申し出るが、この期に及んで西側だけに降伏などという戯言が相手にされるはずもない。

4月30日、ヒトラーが総統地下壕で自殺。

5月1日から2日にかけ、ベルリン防衛軍は降伏。

5月1日、長らく国民啓蒙・宣伝大臣を務め、ヒトラーの死後、首相となったヨーゼフ・ゲッベルスが家族共々自殺。

5月6日、ヒトラーの後継で大統領となったカール・デーニッツが全権委任したアルフレート・ヨードルを連合軍最高司令官アイゼンハワーの司令部に派遣。

5月7日、発効を5月9日零時としてドイツ国防軍全軍の無条件降伏文書に署名した。デーニッツの方はニュルンベルク裁判で無罪となり、1980年12月24日、89歳の天寿を全うした。

ケストナーが3月に移った先のマイヤーホーフェンはチロル地方に位置する戦前からの観光地だ。

地元の人間が大半がわたしたちに好意を寄せていないのは明白だ。反感を持つのはよくわかる。観光で生計を立てている者は外来者が気にくわない。そういうものだ。よそ者は彼らの部屋や高地の空気や展望や日の光やトイレや野の花を利用する。それが腹立たしいのだ。だがこうした怠け者から入場料や賃貸料や手数料をもらっているので、嫌っていることを表にだすわけにはいかない。それが事態をいっそう悪くする。

100頁

ケストナーは悪態をついているが、戦時下でただでさえ物が不足している時に疎開民や避難民を受け入れる余裕があるかどうか、考えなくともわかるだろう。余裕がなければ、そうした人たちにどのような態度をとるか。仕方がないではないか。日本でも、都市から田舎へ疎開した人々はそういうことになっていたという。戦争末期になって地方都市も空襲に遭うようになると、地方に疎開した意味が無いと考え、何かと居づらい田舎から焼け野原の東京や大阪へ戻って行った人も少なくなかったらしい。

マイヤーホーフェンは現在はオーストリアだが、オーストリアは1938年3月13日にドイツに併合され、1945年3月時点ではドイツ領だ。しかし、4月13日にウィーンがソ連に占領されると、4月27日にはドイツからの独立を宣言した。このことをケストナーは4月29日の日記に「うわさ」として記している。

いくつかのうわさが流れた。ムッソリーニがドイツ軍将校の制服を着て逃亡を図って捕まり、ミラノで他の主だったファシストたちと共に銃殺されたという。ふたつ目のうわさ。赤軍は高齢のレンナー博士を首班に臨時オーストリア政府を樹立したという。三つ目のうわさ。フォアアールベルク州からドイツ軍が撤収したという。

150-151頁

「うわさ」として書いているということは、ケストナーはこの時点でまだ店立てをくわされていないということでもある。5月1日の日記には

きのう、五月の食料配給券が配られた。なのに、早くも食料がない。パンもバターもパスタも売り切れ、どの店もガラガラだ。「プロイセンの連中が店に殺到した」と農婦たちが憤慨して言いはっているが、新しい配給券を一気に食料に交換したのはわたしたちではなく、ウイーンからの避難民だった。店はどこも、買い占めを阻止する工夫をしていなかったのだ。合法的な略奪にひとしかった。

156-157頁

とある。ケストナーはそのウィーンからの避難民のところへ出向いて、「なけなしのベーコン半ポンド」と交換にパン2ポンドを手に入れる。なぜ、ケストナーがベーコンを持っていたかについては、長い話があるのだが、際限がないので割愛する。しかし、経済というものの原型を見るような話だ。社会人になって最初の年の研修の一コマで観た『てんびんの詩』を彷彿とさせる。いよいよ敗戦が目前に迫ると、それまでの規律の土台がなくなり、世間では大小様々の「てんびんの詩」が繰り広げられる。当座の起点となるのは物資が集積されている軍隊や軍人だ。「てんびんの詩」つまり商売には情報が重要なのだが、これは自国のラジオ放送と相手方のそれとを両方聴いて、「ほんと」のことを自分で判断するというところが肝要だろう。5月3日の日記にこうある。

昨夜のロンドン放送によると、チロルやフォアアーベルクに到達していた部隊も含めてドイツのイタリア派遣軍が武器を置いたという。その直後、B氏が下士官のヴィリとアルフレートと隠してあるトラックの売買について交渉をはじめた。

165頁

ここから先は渡辺の『手記』や映画『拝啓天皇陛下様』などで見聞きした既視感のあることばかりだ。ケストナーの場合は強制収容所に関する記述もあるが、それについては改めて書くかもしれない。いずれにしても、人の了見は人それぞれだし、現実の世界に聖人君主など存在しないし、結局は有象無象がなんとなくその場の雰囲気に反応してモゾモゾゴソゴソと歴史を紡いでいるのだと思う。たまに正論や正義を問うようなことが起こると、ろくに知りもせず、考えもせず、どこにあるのかもわからない国の国旗を掲げて良識があるつもりになっている人たちもいたようだが、自分が何も考えていないことに気づいていないのだろう。有象無象万歳!世界は平和に満ちている。

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