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蛇足 『砕かれた神 ある復員兵の手記』

読んでいる間は引っかかることがたくさんあったのだが、天皇のことを書いたら、あとはどうでもよくなってしまった。素朴に、この後どうなったのかなぁ、と思ったのは戦死したことになっていた人が復員した話だ。主人公は種屋の人々。

10月31日
 昼まえ稲刈り。午後から近所の者といっしょに遺骨を迎えにいく。遺骨の帰還は敗戦のどさくさで一時中断していて、それ以来こんどがはじめてだそうだ。今日村に還ってきたのは七柱、うちの部落では種屋の辰平が一人だ。

72頁

11月24日
 種屋の安造と山芋掘りにいく。(略)これは今日いっしょに弁当を食べながら聞いた話だが、安造は、兄の辰平の村葬がすんで年が明けたらあによめの幸子とほんの形だけの結婚式をあげるらしい。
「いまさら子持ちの嫂っこを出すわけにゃいかないしな、嫂っこもおれさえよけりゃいいっていうし、親たちや親戚もぜひそうして嫂っこをおいてやってくれっていうもんだから、おれもやっとその気になったわけさ。兄貴が戦死して遺骨まで帰ってきちゃったんだからしょうがにゃあ、そりゃおれにも眼をつけていた女もいにゃあ訳じゃにゃあけんど、おれさえ我慢すりゃ、うちもまるくおさまるんだから…」
 と言ってしばらく掘ってはめこんだような金つば眼をしばしばやっていたが、嫂との結婚にあまり気のりしていない安造にあらたまって「おめでとう」とも言えず、おれは黙っていた。年は幸子のほうが三つ上だそうだが、こういうふうに弟と嫂と結ばれる例は最近は方々にあるらしい。隣り村では、弟が十も年上の嫂と一緒になったという話も聞いた。これを村では「逆縁」とか「直る」といっているが、そのほとんどは跡取り息子が戦死した家のようである。

104-105頁

4月14日
 種屋は朝から人が出たり入ったりして大騒ぎだった。昨夜、突然戦死して村葬まですました長男の辰平が還ってきたのである。辰平はろくに話もしないですぐうちを飛び出してしまったので、どうして生きてこれたのか、詳しいことはまったくわからないが、なんでも四日前、船で上海から博多に上陸したらしい。うちの者は、とつぜん戸間口から入ってきた辰平をみて幽霊ではないかと思ったそうだが、味噌こしざるをもって座敷から土間に降りようとしていた母親の志乃は、息子の顔をみたとたん、下駄に片足をつっかけたまま、へたへたと土間にしゃがみこんでしまったという。
 種屋にもらい風呂にいっていて、ちょうどその場に居あわせた母の話によると、辰平は土間に入ってきてすぐ妻の幸子の体の異常に気がついたらしい。幸子はすでに七ヶ月の身重でもうかくしようがなかった。それが辰平にはよほどショックだったにちがいない。靴もぬがずに土間につったったまま、みるみる顔の色が変わったかと思うと、
「このアマ、誰とくっつきやがった、誰と…、そんな体しやがって、おれが帰ってくるまで待てなかったのかよお、畜生、ぶっ殺してやるから…」
 と怒鳴りながら、いきなり隅の立ち臼の上にかけてあった尺鎌をひっぱずして、駆け寄ってきた幸子に振りかぶったが、それを弟の安造が一瞬早く後ろから羽交じめにおさえたという。そこへ騒ぎをききつけて風呂から飛び出してきた孫一が口から泡をふくようにして、幸子が実は去年の秋ごろから安造と直った前後の事情をあわてて言って聞かせたそうだ。辰平はそのあいだ安造に後ろから両手をおさえられたまま、昂奮して、はあはあ言っているし、幸子は幸子でその辰平の足に母親の志乃といっしょに両手でしがみついて、
「あんた…堪忍して、堪忍して、ご無心だから堪忍してよお、よお…」
 と、身をもみたてて狂ったように泣き叫んでいたという。母は騒ぎで急に泣きだした辰平の二人の子どもを抱きかかえて、ただおろおろしていたらしいが、どっちも気の毒で見ていられなかったと言っていた。辰平はしばらくして自分から握っていた尺鎌をわきにほっぽりだすと、
「相手が舎弟でなかったら、二人ともぶっ殺してやるところだぞ。もうてめえの面なんか二度とみたくねえ」
 と言いながら幸子を二、三度足蹴にして、また毛布と風呂敷の包みを振り分けにかついでそのままうちを出て行ったという。むろんすぐ安造と孫一があとを追いかけて連れ戻そうとしたが、辰平はじゃけんにその手をふりきって、とりつくしまもなかったそうだ。(略)そこでまた夕方おもだった親類衆が集まって相談して、本人が落ち着くまで当分そっとしておいたほうがいいということに話が決まったそうである。

317-319頁

自分の信じていたことが崩れ去るという点では渡辺にとっての天皇の場合と似ている。もうひとつ重要な話の要素は、イエという生活単位が色濃く存在する当時の農村の暮らしだ。今となっては、家督の相続というのは余程の旧家でもない限り問題とされることはないだろう。そもそも相続が問題になる程多くの子供がいない。皇室ですら皇位継承が危うくなりそうな気配を感じさせている。しかし、終戦直後のこの時代には、まだイエを継ぐ、イエを存続させるというのは多くの人にとっては一大事だったようだ。

11月24日の日記の中で、種屋の安造はイエを継ぐことが嫌であるような口ぶりで「おれさえ我慢すりゃ」などと言っているものの、実はその頃には嫂とちゃんとできていた。4月14日の日記の中では嫂の腹は隠しようがない状態になっているのである。前後の話から推定するに、安造は渡辺と同年代で、渡辺は二十歳前後だ。嫂は安造の三つ上と11月24日の記述がある。家族と一緒に暮らしているとはいいながら、年頃の男女が一つ屋根の下で寝起きを共にしているのである。その上、時代の空気としては、家督を継ぐことが一大事であり、長男の戦死が公報で既定事項となっている。となれば次弟と嫂がこういうことになるのは、むしろ自然だろう。そりゃ辰平の立場からすれば「おれが帰ってくるまで待てなかったのかよお」だが、状況としてはやはり待てなかったと思う。

もちろん、戦死の判断がきちんとできるような状況ではないことは誰もがわかっていたので、公報の「戦死」を受け入れることができず、いつまでも身内の帰還を待つ者もいた。「岸壁の母」の世界だ。人はそれぞれだ。

人それぞれなのだが、世相を考慮しないわけにはいかない。渡辺が暮らしている村の生活では食べるものに不自由はない。しかし、世間全体では依然焼け野原のままの都市部で餓死者が毎日のように出ていることが報道されているし、同じ地域でも町場から着物などを持って渡辺の家に米をもらいにくる人の様子が記されている。勢い、人々の関心は食べていようがいまいが、目の前のモノに集まりがちになる。

1月7日
とにかく最近、人々の物や金にたいする執着はすさまじい。一にも二にも物だ。金だ。むろんそれは百姓だけでないかも知れないが、物と金のことになるとみんな眼の色を変えている。これは大和魂とか皇道精神とかいって、何事も精神第一主義で通した戦争中の反動か、それとも戦争でアメリカの物量をいやというほど見せつけられた結果か、どちらにしろ、そこには眼に見えないあやふやな精神なんかよりじかに手にとってたしかめられる「物」や「金」の方が確実だという考えがあるに違いない。

176-177頁

戦死したことになっているが、生きているかもしれない人の帰還を待つよりは、今ここにいる人との人間関係をしっかりと構築しないことには生活ができない。生活という実利もさることながら、敗戦で国土同様にボロボロになった「自分」というものの存在を確かなものにすることができない。圧倒的大多数が食うに困っていない今ですら、人は目の前にあるはっきりとしたものに縋って「自分」を確かめる。社会的地位、所得、資産、肩書、学歴、出自、その他諸々。大概のものは本人が思うほど他人は評価していないのだが、自分がそういうものを確かに備えていると思えることが大事なのだ。

自己承認欲あるいは自己顕示欲の強い人々の筆頭は政治家だろう。己の生身を世間の前に晒して、恥ずかしいことを言い、恥ずかしいことをして、得意になれるのは並の人間にできることではない。「ゲージュツ」関係の人々や「ジツギョウ」関係のエライ人たちも同類だ。しかし、そういう人たちがいるおかげで社会が機能しているのも事実だ。恥を捨て人前に立つカミサマのようなありがたい存在だ。

4月10日
今日は衆議院議員の総選挙だった。おれも二十になったので、役場から投票用紙をもらったが棄権した。別に忙しかったわけではない。選挙になんの期待ももっていないからである。選挙といっても、結局、最後は金の力がものをいっているようだ。昨日も北上の伊之吉がうちにきて、
「一票五百円という噂もあるけんど、ここらじゃだいたい二百円から三百円ぐれえが相場らしいな。でもよ、いくら実弾をばらまいたって、当選すりゃ、じき元を取っちゃうんだから安いもんさ」
と言っていたが、町場のほうでは、闇米をどっさり買いこんでそれを一升ずつ名入りの袋に入れて運動員に配らせている候補者もいたそうである。

308-309頁

恒産なきものは恒心なし、という。人の道、人の心を語るには、自分の生活に余裕がなければならない。身をはって自己主張をし、結果としてそれで世の中が動くなら、主張の中身に関わらず、それはそれで尊いことだ。伊達に「先生」と呼ばれているのではない。大小様々な「先生」がたのおかげで我々は今日も安穏と生きている。

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