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渡辺清 『砕かれた神 ある復員兵の手記』 岩波現代文庫

『敗北を抱きしめて』の下巻で9ページ半(88-97頁)を費やして本書が紹介されていた。もう新刊では流通しておらず、Amazonで中古本を買って読んだ。著者を含め、本書に登場する人物は実名なのか、本書の記述は実話なのか、わからない。本書で渡辺は8月15日を横須賀港で出撃準備中の駆逐艦早波の艦上で迎えたことになっている。しかし、本物の早波は1944年6月7日にボルネオに近いフィリピンの島であるタウイタウイの近くで米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没している。本書の内容が内容なだけに、さまざまな配慮から固有名詞の実名は避けたのかもしれない。

著者の渡辺清は1925年に静岡県富士郡上野村に自作農の次男として生まれた。家計に余裕はなく、小学校を卒業しただけで1941年に海兵団に入団、以来終戦で復員するまで海上勤務だった。レイテ沖海戦では戦艦武蔵に乗り組み二番砲台の射手を務めた。武蔵はこの海戦で沈没、渡辺は武蔵乗員の中の数少ない生存者の一人だ。終戦から2週間ほどで復員。本書の日記は静岡の実家で家業の農業を手伝って暮らしていた時期のものである。日記の日付は1945年9月2日から1946年4月20日まで。この後、上京して農林専門学校の教授の助手となる。その後、働きながら進学、就職、日本戦没学生記念会の事務局長としても活動するが、病を得て1981年逝去。

本書で注目すべきは、「国のため、天皇のため」戦火の最前線で戦った兵士が復員後にその戦いを全否定するかのような社会で何を考えたか、ということに尽きると思う。自分というものが当然に持っていた価値観がその座標軸ごと大転換してしまう。しかも、自分の身近な人々がその大転換を当然の如くに肯定して生きている。ひょっとして、カフカの『変身』も同じことを描いているのかもしれない。

渡辺にとって、何よりも大きな問題は自分の価値観の大黒柱のような天皇のことだろう。日記の最初と最後の数ヶ月の間に、これもまた大転換するのである。その大転換の理由は実に尤もなことだと思うのである。日記の日付を追って渡辺の天皇に対する見方の変化を羅列すると以下のようになる。

9月2日
「天皇陛下が処刑されるかもしれない」という噂が村うちに流れている。それがいつごろから広がったのか、まだ復員かえったばかりのおれにはわからないが、今日もうちへ棒秤りを借りにきた種屋の孫一が、上がり框で父を相手にひとくさりこの噂をしたあと、
「まあ、業腹だけんど、なんしろ、こっちゃ、ころ敗けに敗けちまったんだから、天皇陛下の首が吹っ飛んだって文句は言えねえわさ…」
と言って煙管をやけにぽんぽん叩いていた。
(略)
それにしてもおそろしい罰あたりな噂だ。天皇陛下といえば、「神聖ニシテ侵スヘカラス」「一天万乗の大君」であり、「現人神」であり、この国の「元首」ではないか。その天皇陛下が、たとえ噂にもせよ、絞首の刑に擬せられているとは、考えるだけでも畏れおおいことだ。辱いことだ。むろん、これだけの大戦争におさまりをつけるためには、いずれ敵方からなんらかの形で決定的な報復を受けるだろうが、ただその累が天皇陛下におよぶことだけはなんとしても避けなければならない。それはなによりも「神聖な玉体」を穢すことになるからだ。
(略)
戦争は天皇陛下の御命令で開始され、惨憺たる敗北を喫したあげく、最後も天皇陛下の御命令で終止符がうたれた。そして、その間たいへんな犠牲者を出したのだ。天皇の名によっておびただしい人命が失われたのだ。畏れおおいことだが、この責任は誰よりもまず元首としての天皇陛下が負わなければならない。

1-3頁

10月17日
命からがら復員してみれば、当の御本人は敗戦の責任をとるどころか、チャッカリと敵の司令官を訪問したりしている。仲良く並んで写真におさまったりしている。厚顔無恥…。そして、おれはその天皇に戦場で命を賭けていたのだ。それを思うと吐きすてたいような憤りに息がつまりそうだ。感情がはじけて、いてもたってもいられない気持ちになる。

58頁

1月2日
 天皇が元旦に詔書を公布した。新聞のトップに「詔書」と出ていたので、おれはこれはてっきり天皇が区切りのいい年頭にあたって、ようやく戦争の責任をとって退位することになり、そのための詔書かもしれない、と思ったが、とんでもない居直り宣言だった。狡知佞弁こうちねいべん、よくも今になってこんな詔書が出せたものだ。卒読、おれは吐き捨てたいような怒りを感じた。頭がくらくらして、足の裏から冷たい血がのぼってくるような思いだった。
「然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神あきつかみトシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ」
 わけてもこの一節には憤慨した。いままで絶対的な「現人神」として君臨していたくせに、それを自らいとも簡単にひっくり返して、こんどは臆面もなく「信頼」だの「敬愛」だのという。狐や狸の化かし合いではあるまいし、こんな一方的な勝手な言い分が通るとでも思っているのだろうか。読みようによっては、天皇をこれまで現人神にまつり上げてきたのは、ほかならぬ国民であって、天皇の知ったことではないというふうにもとれる。

167頁

2月2日
が、しかしよくよく考えてみれば、天皇だけを責めさえすればそれですべて片付く問題ではないように思う。なぜならそういう天皇を知らずに信じていたのは、ほかの誰でもない、このおれ自身なのだから。知らなかったら知らなかったことに、欺されていたら欺されていたことに、つまりおのれ自身の無知にたいする責任がおれにあるのではないか。なるほどすべてをそっくり天皇のせいや世の中のせいにしてしまえば都合がいいかもしれないが、それではおれ自身の実体は宙に浮いてしまう。おれはおれでなくなってしまう。

212頁

勝手な想像なのだが、天皇がどうこうとか、それを信じることがどうこうというよりも、そうすることでしか生きることに納得できなかった時代の空気のようなものがあったのではないだろうか。「私」とは、他者との関係性があってはじめて成り立つものであり、「他者」には特定の相手だけではなくその社会のその時々の空気のようなものも含む。だから、戦争という状況や戦場という具体的な場での理不尽に直面して存在の危機に立たされた渡辺の「私」は、その理不尽を天皇という絶対的な存在との関係の中で咀嚼し受容しようとしたのではないだろうか。

関係性というのは時事刻々変化する。一方で、物事や思考には慣性がある。昨日と同じ今日ではないし、今日と同じ明日があるはずがない。そんなことは誰もがわかっているはずだが、暗黙のうちに今日の延長のような明日があると確信しているものである。明日を想定できないなら今この瞬間の行為や思考が成り立たない。経験や体験に基づく予想や妄想に依って、物事をトレンド線上に位置付けないことには今この瞬間の「私」は存在し得ないのである。

戦争という日常が終焉したのだから、その戦争という特殊な日常の中に存在した「私」も消える。ところが、現実には私は今こうして存在しているので、そこに何かしら理由をつけないことには「私」は生きていくことができない。節操なく過去の「私」を無視するかのように、昨日の「鬼畜米英」が今日は天皇に代わって価値観の座標軸の根幹に据えられるのは人間社会の当然なのだと思う。かといって、天皇そのものを無かったことにしたのでは、焦土と化した国土と身近な人々を失ったという別の現実と折り合いをつけることは難しかったのではないか。

個々の「私」の存在は理屈では納得できないが、無数の「私」を集めて人間社会という集団を単位として考えれば、個々の「私」が生まれたり死んだりしても、集団は存在し続けるものと想定することができる。構成要素である個人の個性を無視して一律の機能単位とすれば、数理モデルや論理モデルのようなもので集団の単位としての個人の行動原理を想定することが可能になる。行動原理が想定できれば与件をさまざまに置き換えて行動予測をすることができるようになる。

つまり、「私」は理屈で理解できるものではないが、個性なき人間とか人間社会という概念は科学的な説明が可能になる。米国が天皇を廃さなかったのは、日本という社会や日本人という構成単位を科学的に分析し検討した結果なのだろう。『敗北を抱きしめて』のところでも書いたが米国は1944年半ば段階で、対日占領政策において天皇を存続させることを決めている。

渡辺の「天皇」は1945年9月2日はまだ「神」だったのだが、1ヶ月ほど後にはその位置付けが大いに揺らぎ、1946年正月には怒りの対象になった。この間、渡辺は意識するとしないとに関わらず「私」の再構築を行っており、1946年2月初めには、それまでの自分の価値観を見直すに至る。しかし、新たな「私」を生きるには、どうしてもそれまでの「私」の中核を担っていた「天皇」を総括しないわけにはいかなかった。そこで、軍隊にいた間に支給された俸給と軍装の借料を計算し、それに御下賜品の分としていくばくかの金額を加えると4,282円になった。このうち4,000円を父親から借り、自分の手元の金で282円を出して郵便局で為替を組み、金額の説明でもある手紙を添えて天皇宛に送ったのである。その手紙はこのように締め括られている。

私は、これでアナタにはもうなんの借りもありません。

336頁

丸谷才一の小説に『笹まくら』というのがある。戦争中、徴兵を忌避して逃げ回った男の、逃走中と戦後の話である。兵隊にいかなかったことは結果としては生き残ることにつながったが、兵隊にいかなかったことがバレることで戦後は何かと生きづらい人生を歩む。読んだのが5年ほど前で、読み終わったものは売ってしまって手元にないので記憶があやふやなのだが、そんな話だったと思う。こちらは小説なのだが、似たような実話があったとしてもおかしくはない。

人が生きる場には、その時々の空気というものがあって、それにどっぷり浸かったら浸かったで、竿を刺すようなことしたらしたで、それぞれに厄介なことになる。自分でさえも時間が経てば今の「私」にとっては他人の一人だ。「私」が生きるということは他人・他者との関係を調整するということのような気がする。そうだとすれば、生きることは関係の主体である自分と他人・他者を探求し続けることということになる。

探求の結果、今の「私」に都合の悪い関係性を明確に清算しなければならないことも人生においては度々起こる。渡辺は天皇との関係を、天皇の赤子として軍務に就ていた時に支給されたものを全て金額に換算して文字通り清算を図った。天皇の方も、自分のために何百万もの人が命を失ったことを「あっ、そう」と流すことで自らの命を繋いだとも見ることができるのではないか。人により、立場により、生き方はそれぞれなのだと思う。

ジョン・ダワー 著 三浦陽一・高杉忠明・田代泰子 訳 
『敗北を抱きしめて』 増補版 下 岩波書店

見出しの写真はブルネイの海。レイテ海戦へ向け栗田艦隊はブルネイで補給を行なって出撃した。艦隊の旗艦は渡辺が乗務していた戦艦武蔵。この海戦で武蔵は沈没する。2012年6月にブルネイに出張する機会があった。栗田艦隊が出港したという港は宿の近くだったので、見に行こうとした。暑くて暑くて、宿の建物を出て、敷地を抜けて出入口に辿り着く前に断念して建物に引き返した。だから、写っているのは宿のビーチからの眺め。

余談だが、ブルネイ王室は世界で英国王室に次ぐ富裕を誇る。富の源泉は石油だ。国内のほとんどの生活インフラを国民は無料で利用できる。経済的な貧困の存在しない国である。私が宿泊したのは国営ホテルのスタンダードルームだった。出張先がブルネイ投資庁で現地での宿泊は先方が用意してくれた。その「スタンダード」だという部屋の広さは57平方メートルだった。今私が暮らしている公団住宅は築50年超なのだが竣工後数十年を経て一部屋分増築した棟だ。増築後の広さが53.55平方メートル。住居と違って生活用品が置かれていない宿の部屋は広いのなんのって。投資庁の人は「スタンダード」の部屋しか用意できなくて申し訳ないと言ってくれたのだが、そう言われると大変フクザツな気持ちになるのだった。

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