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内田百閒 『東京焼盡』 中公文庫

東京が空襲に遭うようになってから終戦までの日記。

本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ツタノハ昭和十九年十一月一日デアル
(13頁)

内田の筆致が淡々としている所為もあるだろうが、焼夷弾が降るなかも淡々とした世界のように感じられる。時に内田は57歳。今の私と同世代だ。兵隊に取られる年齢ではなく、それどころか、おそらく当時の平均寿命間近といったところだろう。そういう人生の時間軸での位置も関係あるかもしれない。それでも儒教文化のお零れとか世間の習慣などのおかげで、年長者を敬う気風のある社会ではそこそこに存在感もあったはずだ。日記によるといろいろな人が物資の乏しい中でいろいろな差し入れをしている。差し入れとは要するに食料だ。「差し入れ」と書いたがタダではなかったようだ。日記の記述も食に関することが圧倒的に多い。生きることは食べることなのである。

当時、内田は既に教職を辞め、文筆業に専念しながら、日本郵船の嘱託となり毎日のように丸の内にある郵船本社に出社している。住まいは東京都麹町区土手三番町(現在の千代田区五番町)。通勤には省線を利用。省線とは現在の首都圏JR線だ。国鉄時代には国電と呼ばれていた。当時は鉄道省の管轄だったので省線。東京が空襲されるようになると、建物がしっかりしている郵船ビルに大事な私物を避難させている。その出し入れで奥さんが職場に来ることもあったようだ。

「東京大空襲」と呼ばれる大規模な空襲が何度かある。何の説明もなく「東京大空襲」と言う時は三月十日の空襲を指す。この日の日記で注目すべき記述がいくつかある。

表を焼け出された人人が列になつて通つた。火の手で空が明るいから、顔まではっきり見える。みんな平気な様子で話しながら歩いて行つた。声も晴れやかである。東京の人間がみんな江戸ツ子と云うわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持ちでゐられるのかと考へた。著のみ著のままだよと、可笑しさうに笑ひながら行く人もあつた。(95-96頁)

東日本大震災の日のことを思い出した。当時、私は巣鴨の国道17号の旧道に面した小さなマンションの2階で暮らしていた。「とげぬき地蔵」として知られる高岩寺がある通称「地蔵通り」。江戸六地蔵尊のひとつである眞性寺もある。東京でも震度5強を記録し、鉄道は地震以降終日運休した。私は夕方から夜間にかけてのシフトだったので、出勤は諦めて家の中にいた。携帯電話は通じなかったがメールは通じた。翌日の夜にかつての職場の同僚二人と飲み会の予定があり、夜になってメールで連絡を取り合ったところ、私と目黒区在住のもう一人は出かけるつもりでいたのだが、千葉在住の奴が家の中が大変なことになっていて飲み会どころではないと言うのでキャンセルすることになった。私は幹事役だったので、予約を入れていた店にキャンセルの電話を入れようと思った。携帯が通じないので、とげぬき地蔵境内にある電話ボックスまで行こうと外へ出たら、地蔵通りは都心から板橋方面へ向かって人が川の流れのようにぞろぞろ歩いていた。白山通りは車の大渋滞で、その歩道も人がぞろぞろ流れていた。鉄道が運休しているので徒歩で帰ろうとしている人たちだ。中には勤務先と思しき社名入りのプラスチックのヘルメットを被った人もいたが、表情はやはり平気な様子に見えた。

午後遅く三時を過ぎて省線電車にて出社す。(96頁)

2011年の震度5では終日運休となった首都圏の鉄道網だが、昭和二十年三月の大空襲の際には、空襲が終われば必要な応急処置を施しながら鉄道は動いていたのである。総じて昔に比べてライフラインは今の方が脆弱になった気がする。管理にかかる様々な仕組みや仕掛けが電子制御になり、便利にはなったもののブラックボックス化した為に、平時とは違うことが起こると対応できなくなるのである。殊に停電に対して弱くなった。電気が止まると何もできない。また、それらを動かす人の扱いも、当事者の意識も随分変わったことだろう。

毎日のように空襲があると、天気予報のように空襲予報が人々の間で習慣となる。三月二十八日の日記。

考へて見るに、この頃は毎朝の新聞が面白い。特にB29に関する記事は本気で読んで、こちらへ来るか来ないかの判断をする。眼光紙背に徹するの概がある。(114頁)

流石に毎日のように空襲があれば、戦況も凡そ把握できる。四月五日、小磯内閣辞職。既に沖縄は落ちている。翌六日の日記。これだけ読むと敗戦を意識しているようには思われない。

東条がやめた後の小磯内閣は昨日辞職したる由なり。琉球は敵が上陸して大変な時に大変な事なり。(126頁)

四月になる頃には既に省線はあちこちで寸断されている様子。電力やガスも不安定で、郵便が機能不全に陥っている。郵便が使えないと自ら手紙を相手に持っていくようになる。四月十五日の日記。

午後遅く省線電車往復にて千駄ヶ谷の立退先の小林博士へ行く。今日も亦留守の時の事を考へ要件の手紙を認めて行った。出かける時間から考へて多分留守だらうと思ひながら手紙を持つて行つたのは、この頃郵便があてにならず、速達もちつとも速くない。こなひだ美野のよこした速達は杉並方面から麹町まで四日かかつた。(140頁)

五月三日の日記にヒトラーとムッソリーニの死亡のことが書かれている。ムッソリーニは逃亡中にパルチザンに捕まり四月二十八日に処刑された。ヒトラーは四月三十日に自殺。五月七日、ドイツは連合国への降伏を決定、八日に降伏文章署名、即日発効。五月三日の日記。

独逸終に潰滅しヒトレルは戦死す。ムツソリーニは一両日前に殺されたり。(164頁)

ここで日本は名実ともに世界で孤立するわけだが、日記の方は食い物と酒の心配ばかりである。実際はそういうものなのだろう。五月十三日の日記に入浴のことが書いてある。空襲はなくとも毎日のように敵の飛行機が飛来する下で入浴という無防備な状態を自ら選好するわけにはいかない、という事情もあるだろうし、水道や燃料が思うようにならないという事情もあるだろう。

こなひだ半歳振りにお風呂に入這つて以来、三四日目か長くても一週間はおかずに入浴してゐる。(174頁)

戦時中は食べるものにも不自由しただけでなく風呂にも入れなかったんだ、と思うと、今の感染症にまつわる不自由はどうなんだろう思う。私の母は宇都宮で焼け出されているし、父も川口で戦災に遭っている。子供の頃で記憶もないのだろうが、あの戦争を生き延びた張本人であることには違いない。その割に頼りないところを見ると、人は雰囲気を生きるのだと結論付けないわけにはいかない。つまり、どのような状況でも「そういうもの」と思って生きると、その場はやり過ごすことができるものなのだろう。その雰囲気が醸成されない中にあって、自分で判断をしないといけないとなると、的確に動くことのできる人とそうでない人と大きく分かれることになる。そんな気がする。

また、そこから何がしか教訓を得るなり学ぶなりするのは、そういうことができるに足る素養のある人だけであって、そうでなければ、どれほど素材として豊かな体験であっても風景として通り過ぎてしまう。「馬鹿は死んでも治らない」というのはそういう古来からの人の暮らしぶりから導き出された観察結果なのだ。よく、子供にたくさんの習い事を強制する奴がいるが、、、ま、この話はやめておこう。

連日のように空襲で東京はだいぶ焼けてしまったようだが、それでも燕がやってくる。五月十六日の日記には四谷駅の麹町口の軒に燕が営巣していることが書かれている。そして三月十日とは別の「東京大空襲」を迎える。五月二十五日から二十六日未明にかけてのことだ。この空襲で内田は焼け出され、たまたま焼け残った隣の屋敷の庭の隅にあった小屋を借りて住む事になる。この空襲で東京駅も焼けた。この後しばらくは屋根のない状態で営業を続けることになる。

東京が焼け野原になると、爆撃する側からすればそれ以上東京に爆弾を落としても意味がない。爆弾もそれを落とすために飛ばす飛行機の燃料も兵隊の命もタダではない。アメリカはじめ連合国のほうも懐は火の車だった。戦争が続いているのだから、反撃らしい反撃がなくても攻撃の手を緩めるわけにはいかない。だから、爆撃の対象は東京など大都市を焼き尽くした後、まだ手を付けていない地方都市に移る。

そうなると、空襲を避けるために地方へ疎開することが意味を成さなくなる。実際に戦争末期には疎開先から東京へ戻る動きも見られた。疎開先から戻るのは、空襲のリスクのことだけではなかっただろう。親類縁者を頼って疎開したとしても、疎開先では所詮余所者だ。自分たちも楽ではないところに他所から大挙して土地に馴染みのない人たちがやってきたら、その人たちに対してどのような感情が起こるか、考えるまでもない。きっかけがあればそんなところから脱け出して、焼け野原であったとしても自分のホームグランドに戻りたいという人が少なくなかったということでもあろう。人間というものは嫌なものである。つまらないことで人を選り分けて、その分類の中で己を位置づけないと不安でいられないようだ。

いよいよ敗戦まで一月。焼け出されて隣家の敷地の隅の小屋に住まいするのは変わらず。栄養状況は悪化の一途で、体調が良くない。どうも慢性的に良くないようだ。栄養が足りないくらいだから医薬品も足りない。病気になったら手の施しようがない。それでも、まだ満洲は余裕がありそうだ。七月二十日の日記に、仕事で満洲から上京した人が登場する。

こなひだ新京の浜地が来た時、あちらへ帰つたら新京には未だお酒の都合がつくからお酒を送つてくれると云つた。又高梁酒の一種にて白酒と云う強い支那酒あり。アルコホル度は七十とか七十五とかなればそれを送るから薄めて飲めと云つた。(280頁)

その後、満洲から酒が届いたのかどうか、日記には書かれていない。しかし、現代を生きる我々は昭和二十年七月には本土よりは余裕のあった満洲がソ連が宣戦布告をした八月九日以降にどうなったか知っている。私は身近に満洲から引き揚げてきた人の関係者がいないので関心もなかったのだが、森繁久彌の著作集を読んでかなり衝撃を受けた。そのことは別の機会に書くかもしれない。

七月二十一日の日記に内田の郷里である岡山が六月終わり頃に空襲に遭ったことが書かれている。私は自分が生まれ育った生活圏内で60年近い歳月を過ごしているので「郷里」というものの感覚がよくわからない。

八月九日の日記に広島のことが書かれている。遠く離れた東京で広島の状況がどこまで伝わっているのか定かではないが、空襲の規模は飛来する敵機の数とは比例しないという教訓を強く残したようだ。

又午前八時十五分警戒警報。B 29一機なれども去る六日の朝七時五十分B 29二機が広島に侵入して原子爆弾を投じたる為瞬時にして広島市の大半が壊滅した惨事あり。その後だから一機の侵入にしても甚だ警戒す。(321頁)

日記には書かれていないが、その後に長崎にも原爆が投下されたことは伝わっているのだろう。次は東京か、という噂が流れていたらしい。八月十一日の日記。

又唐助は美野から聞いた話なりとて亜米利加は明十二日東京に原子爆弾を落とすと云つてゐる。この頃は敵の予告がその通り実現するのだから用心しなければならない。その話は美野が新聞記者から聞いた事にてその記者は十二日一日だけどこか東京を離れる切符を手に入れると云つてゐたが露西亜の参戦で戦争が終局に近づいたらしいから或いは敵はその予告を実行しないかも知れない。しかしもしさう云う事になつたら自転車に乗つてどこか家並を離れる方角へ一生懸命に走ると云う事にしてゐる由である。(323頁)

いつの時代も新聞記者というものにはロクなのがいない。そして迎える八月十五日。

昨夜より今日正午重大放送ありとの予告あり。今朝の放送は天皇陛下が詔書を放送せらると予告した。誠に破天荒の事なり。午まへしやもじ小屋に来りてラヂオを聞きに来る様案内してくれた。正午少し前、上衣を羽織り家内と初めて母家の二階に上がりてラヂオの前に坐る。天皇陛下の御声は録音であつたが戦争終結の詔書なり。熱涙滂沱として止まらず。どう云う涙かと云う事を自分で考へる事が出来ない。(331頁)

戦争が終わったからといって急に焼け跡が元に戻ったり、食べるものが出てくるわけではない。内田の日記は続くのだが、本書の締めは八月二十一日だ。空襲がない、戦争がないというのは人の気持ちには大きく作用する。尤も、この後もそう平坦な道ではなかったことは、現代を生きる我々は知っている。知らない人は知っておくべきだと思う。

空襲は毎日のことではあるが、同じところに毎日というわけではない。しかし首都が毎日空襲を受けるようになっているにもかかわらず、戦争の終わる気配がなく、空襲が日常生活のなかに組み込まれる不思議は、最近の感染症騒動とも重なるものがある気がする。

人類が撲滅を成し遂げた感染症は天然痘だけなのだそうだ。死病と言われたものが治療可能になった、というのはいくらもあるようだが、何年も発症した人が存在せず、WHOが撲滅宣言を行ったのは天然痘が唯一のものだ。天然痘を克服できたのは種痘によるところが大なのだそうだ。インドや中国では天然痘患者の膿を健康な人に接種して免疫を得る人痘法が古来より行われていた。しかし安全性に難があったらしい。1796年にイングランドの医師エドワード・ジェンナー (Edward Jenner) は、天然痘にかかった牛の膿を用いた牛痘法を考案、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果を発揮した。ワクチンという言葉もこの時用いられたものである。ワクチン (vaccine)、予防接種 (vaccination) の Vacca は雌牛を意味するラテン語由来だ。天然痘撲滅確定記念で日本でもなんかお祝いしようか、というので東京国立博物館の敷地にジェンナーの銅像(見出し画像)を建てた、かどうかは知らない。銅像のことはともかくとして、つまり、病気の根絶など軽々にできるものではないのである。流行病の所為で近頃影が薄くなったがインフルエンザは毎年のように型を変えて流行する。今度の流行病もそういうローテーションに組み込まれて日常化するのではないだろうか。今はなんとなくそんな気がする。

参考:1944年以降の主な空襲一覧(当時の日本領)
Wikipediaの記事から抜粋要約編集

1944年
6月15日(木)八幡(福岡県)製鉄所 中国成都の基地からB29飛来
10月10日(火)那覇(沖縄県)沖縄全域
10月25日(水)大村(長崎県)東亜最大規模といわれた第21海軍航空廠
11月21日(火)熊本(熊本県)
11月24日(金)東京(東京都)マリアナ諸島基地のB29による初空襲
11月27日(月)東京(東京都)中島飛行機武蔵製作所
12月13日(水)名古屋(愛知県)軍需工業地帯
1945年
1月3日(水)神戸(兵庫県)
1月6日(土)京都(京都府)
2月16日(金)東京(東京都)
2月26日(月)大阪(大阪府)
3月1日(木)台南(台湾)
3月10日(土)東京(東京都)関東地区の航空基地、軍需工場
3月13日(火)大阪(大阪府)
3月17日(土)神戸(兵庫県)
3月18日(日)大分(大分県)航空隊施設
3月18日(日)鹿児島(鹿児島県)海軍航空隊
3月19日(月)名古屋(愛知県)
3月19日(月)呉(広島県)軍港
3月19日(月)京都(京都府)
3月27日(火)小倉(福岡県)
4月4日(水)立川(東京都)陸軍航空廠、飛行場
4月8日(日)玉野(岡山県)
4月12日(木)郡山(福島県)
4月13日(金)東京(東京都)
4月15日(日)東京(東京都)
4月15日(日)川崎(神奈川県)
4月16日(月)京都(京都府)
4月20日(金)倉敷(岡山県)帯江地区
4月21日(土)鹿児島(鹿児島県)時限爆弾使用
4月21日(土)大分(大分県)
4月22日(日)京都(京都府)
5月5日(土)呉(広島県)
5月5日(土)大分(大分県)
5月10日(木)徳山(山口県)海軍燃料廠
5月11日(金)神戸(兵庫県)
5月11日(金)京都(京都府)京都御所被災
5月14日(月)名古屋(愛知県)名古屋城焼失
5月24日(木)東京(東京都)
5月25日(金)東京(東京都)国会議事堂周辺や皇居の一部、東京駅が被災
5月29日(火)横浜(神奈川県)
5月31日(木)台北(台湾)
6月1日(金)尼崎(兵庫県)
6月1日(金)奈良(奈良県)
6月5日(火)神戸(兵庫県)
6月7日(木)大阪(大阪府)
6月9日(土)名古屋(愛知県)熱田空襲
6月10日(日)阿見(茨城県)海軍航空隊
6月10日(日)日立(茨城県)
6月10日(日)千葉(千葉県)
6月15日(金)大阪(大阪府)
6月17日(日)鹿児島(鹿児島県)
6月18日(月)浜松(静岡県)
6月18日(月)四日市(三重県)
6月19日(火)福岡(福岡県)
6月19日(火)静岡(静岡県)
6月19日(火)豊橋(愛知県)
6月21日(木)名古屋(愛知県)
6月22日(金)姫路(兵庫県)川西航空機姫路製作所
6月22日(金)水島(岡山県)
6月22日(金)各務原(岐阜県)
6月22日(金)呉(広島県)
6月26日(火)京都(京都府)
6月26日(火)奈良(奈良県)
6月28日(木)呉(広島県)
6月29日(金)岡山(岡山県)空襲警報なく被害増大
6月29日(金)佐世保(長崎県)
6月29日(金)下関(山口県)
7月1日(日)熊本(熊本県)
7月1日(日)呉(広島県)
7月2日(月)下関(山口県)
7月3日(火)姫路(兵庫県)
7月4日(水)高松(香川県)
7月4日(水)徳島(徳島県)
7月4日(水)高知(高知県)
7月6日(金)千葉(千葉県)
7月6日(金)甲府(山梨県)
7月7日(土)清水(静岡県)
7月7日(土)明石(兵庫県)油脂焼夷弾使用
7月9日(月)和歌山(和歌山県)
7月9日(月)堺(大阪府)
7月9日(月)岐阜(岐阜県)
7月10日(火)仙台(宮城県)
7月12日(木)宇都宮(栃木県)
7月12日(木)鹿沼(栃木県)
7月12日(木)敦賀(福井県)日本海側初の空襲
7月13日(金)一宮(愛知県)
7月13日(金)川崎(神奈川県)
7月14日(土)釜石(岩手県)
7月14日(土)北海道全土(北海道)青函航路途絶
7月15日(日)室蘭(北海道)
7月16日(月)大分(大分県)
7月16日(月)平塚(神奈川県)海軍火薬廠、海軍航空廠、海軍工廠
7月17日(火)沼津(静岡県)海軍工廠、海軍技術研究所
7月17日(火)桑名(三重県)
7月17日(火)日立(茨城県)
7月18日(水)野島崎(千葉県)
7月19日(木)福井(福井県)
7月19日(木)日立(茨城県)
7月19日(木)銚子(千葉県)
7月19日(木)岡崎(愛知県)
7月23日(月)犬山(愛知県)
7月24日(火)大阪(大阪府)
7月24日(火)半田(愛知県)中島飛行機半田製作所
7月24日(火)津(三重県)橋北地区工場地帯
7月24日(火)桑名(三重県)
7月24日(火)呉(広島県)
7月25日(水)保戸島(大分県)授業中の国民学校が直撃される
7月25日(水)串本(和歌山県)艦砲射撃
7月25日(水)川崎(神奈川県)
7月26日(木)松山(愛媛県)
7月26日(木)平(福島県)
7月26日(木)徳山(山口県)
7月27日(金)鹿児島(鹿児島県)
7月28日(土)津(三重県)
7月28日(土)呉(広島県)
7月28日(土)青森(青森県)M74六角焼夷弾使用 東北最大の被害
7月28日(土)一宮(愛知県)
7月28日(土)宇治山田(三重県)
7月29日(日)浜松(静岡県)艦砲射撃
7月31日(火)清水(静岡県)艦砲射撃
8月1日(水)水戸(茨城県)
8月1日(水)八王子(東京都)
8月1日(水)川崎(神奈川県)
8月1日(水)長岡(新潟県)
8月2日(木)富山(富山県)
8月5日(日)前橋(群馬県)
8月5日(日)佐賀(佐賀県)
8月5日(日)今治(愛媛県)
8月6日(月)広島(広島県)原子爆弾リトルボーイ
8月7日(火)豊川(愛知県)海軍工廠
8月8日(水)福山(広島県)
8月8日(水)八幡(福岡県)
8月9日(木)長崎(長崎県)原子爆弾ファットマン
8月9日(木)大湊(青森県)
8月9日(木)釜石(岩手県)艦砲射撃
8月10日(金)花巻(岩手県)
8月10日(金)熊本(岩手県)
8月10日(金)大分(大分県)
8月11日(土)久留米(福岡県)
8月11日(土)加治木(鹿児島県)
8月12日(日)阿久根(鹿児島県)
8月13日(月)川崎(神奈川県)
8月13日(月)長野(長野県)
8月13日(月)上田(長野県)
8月14日(火)大阪(大阪府)
8月14日(火)岩国(山口県)
8月14日(火)光(山口県)
8月14日(火)熊谷(埼玉県)
8月14日(火)伊勢崎(群馬県)
8月14日(火)小田原(神奈川県)
8月14日(火)土崎(秋田県)
8月22日(水)豊原(樺太)ソ連軍機による爆撃




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