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山田風太郎 『戦中派不戦日記』 角川文庫 その1

昭和20年の日記。内田百閒の『東京焼盡』と時期が重なる。何故かわからないが、あの戦争のことが気になる。子供の頃は、まだ多少戦争の余韻が残っていた。上野駅の構内では白衣に軍帽という姿で義足とか義手をつけた人が、前に空き缶を置いて楽器の演奏をしていたのを今でも覚えている。親戚には戦死した人はいないが、徴兵で戦争に行った人は何人かいた。両親は昭和12年の生まれなので、終戦時は8歳。空襲の中を逃げ惑っていたはずだ。日本中の主だった町が焼け野原になった。我々はそこを生き延びた人々の末裔だ。それにしては軟弱で虚弱に過ぎる気がする。追い詰められ方が足りないのか、あれから甘やかされ過ぎたのか。

昭和20年、終戦を迎えるまで東京は断続的に空襲に遭ったが、そのなかでも特に大規模であったのが3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日とされている。一般に「東京大空襲」という場合、3月10日の空襲を指すことになっている。

総体に内田と山田の日記のトーンはかなり違っているのだが、50代半ばを過ぎている者と20代前半の者との立場や個人的諸事情の違いに起因するところ大であろう。生活の場は、内田が番町で、山田は通っていた大学が新宿で住まいは目黒のようだ。おそらく二人とも似たような風景の中にいた。例えば、その3月10日の記述は以下の通りだ。

午前零時ごろより三時ごろにかけ、B29約百五十機、夜間爆撃。東方の空血の如く燃え、凄惨言語に絶す。
爆撃は下町なるに、目黒にて新聞の読めるほどなり。
(略)
午後、松葉と本郷へゆく。
若松町に出ると、晴れた南の空に巨大な黒煙がまだぼんやりと這っていた。それは昨夜の真夜中から今朝のあけがたまで、東京中を血のように染めて燃えつづけた炎の中を、真っ黒な蛇のようにのたくっていたぶきみな煙と同じものであった。
牛込山伏町あたりにまでやって来ると、もう何ともいいようのない鬼気が感じられはじめた。ときどき罹災民の群に逢う。リヤカーに泥まみれの蒲団や、赤く焼けただれた鍋などをごたごた積んで、額に繃帯した老人や、幽霊のように髪の乱れた女などが、あえぎあえぎ通り過ぎてゆく。しかし、たとえそれらの姿をしばらく視界から除いても、やっぱりこの何とも言えない鬼気は町に漂っているのである。
(略)
自分と松葉は本郷に来た。
茫然とした、何という凄さであろう!まさしく、満目荒涼である。焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の生活の背景をなす「物」の姿が、ことごとく灰となり、なおまだチロチロと燃えつつ、横たわり、投げ出され、ひっくり返って、眼路の限りつづいている。色といえば大部分灰の色、ところどころ黒い煙、また赤い余炎となって、ついこのあいだまで丘とも知らなかった丘が、坂とも気づかなかった坂が、道灌以前の地形をありありと描いて、この広茫たる廃墟の凄惨さを浮き上がらせている。
(略)
「つまり、何でも、運ですなあ。」
と、一人がいった。みな肯いて、何ともいえないさびしい微笑を浮かべた。
運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって、深い、凄い、恐ろしい、虚無的な、そして変な明るさをさえ持って浮かび上がった時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐって動いているのだ。
(略)
焦げた手拭いを頰かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで、
「ねぇ…また、きっといいこともあるよ。」
と、呟いたのが聞こえた。
自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。
数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。
それでも彼女は生きている。また、きっと、いいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。この細ぼそとした女の声は、人間なるものの「人間の讃歌」出会った。
(略)
(90-98頁)

内田の方は少しあっさりしている。

忽ち東の方の神田と思はれる空に火の手上がる。敵機は一機宛にて、来襲し百三十機に及びたりとの事なり。又いつもは八千米の高度なるに、今夜は三千、二千、中には千米まで降りて来たのもありし由なり。段段に火の手大きく、又近くなりて往来昼の如し。
(略)
大正十二年の大地震の大火の時に出来た入道雲の様な煙のかたまりが今夜も現はれた。
(略)
表を焼け出された人人が列になって通った。火の手で空が明るいから、顔まではつきり見える。みんな平気な様子で話しながら歩いて行った。声も晴れやかである。東京の人間がみんな江戸ッ子と云ふわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持でゐられるのかと考へた。著のみ著のままだよと、可笑しさうに笑ひながら行く人もあつた。
(略)
往復の途上にて見た焼け跡は、この前の空襲の後の神田の景色とは比較にもならぬひどいものにて、大地震の時の大火以上ではないかと思ふ。いつかは自分の家も焼かれるか知れないとは今迄も考へてゐたが、今度は近い内に必ず焼かれるものと覚悟をした。家内もその用意をしてゐる。火事だけではなく、爆弾にていつ吹き飛ばされるか知れないけれど、死ぬ事にきめてしまつては万事物事の順序が立たない。生死に就いては運を天にまかすとして、生きてゐれば必ず焼け出されるものと一応腹をきめた。今暁の近い大きな火の手を見、又今日の行き帰りに果てしのない焼け跡を眺めたら、さう云う気になつた。
(略)
(内田『東京焼盡』中公文庫 94-97頁)

同じことをほぼ同じ場所で体験しているが、書きようがずいぶん違うように感じられる。内田の方は関東大震災が災害体験の一つの基準になっているようだ。それが余程大きかったらしい。それでも、東京大空襲の方が実感としてそれまでに経験のない惨状であったようだ。また、生死についての「運」は二人とも語っているが、山田が他人の言葉を起点にしているのに対し、内田は自ら悟っている。個性の違いもあるだろうが、人生経験の長さの違いに拠るところもあるだろう。

若いうちは、自分の才覚や努力で物事が動くものと暗黙のうちに信じているところがあるものだ。それが齢を重ねると否応なく自分というものの無力を悟るようになる。しかし、だからといって敗北感に苛まれるのではなく、軽やかな諦観に落ち着くのである。「若い」とか「老い」というのは実年齢とは関係なく、自分に対する無力感の大小で測られるものだと思う。若くして死ぬのは悲劇であり、老いて死ぬのは自然だ。90歳でも「早死」のような心境で逝く人がいるのだろうし、20代でも老境に至る人もいるかもしれない。おそらく、その時その時を自分なりに精一杯の時間を重ねると人生の何事かを悟ることができるのかもしれない。言い換えれば、のんべんだらりと日々を重ねれば、いつまで経っても「若い」ままということでもあろう。自然にくたばりたいものである。



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