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トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳 『ベルツの日記(上下)』 岩波文庫

公開を意図せずに書いた私的な文章が持つ面白さの理由を分析したら、公開を意図した中途半端に私的な文章のつまらなさの理由がわかるかもしれない。尤も、公開される「日記」は本物の日記というよりも、何事かの意図の下に編集されたり創作されたりしたものであろう。公開するということはそういうことである。

本書は明治期に所謂「お雇い外人」として来日し、日本の近代医学と医学教育を担ったエルウィン・ベルツ(Erwin von Bälz、1849年1月13日 - 1913年8月31日)の日記のなかから1876年1月1日から1905年8月29日までと、伊藤博文暗殺(1909年10月26日)の報に接してドイツの新聞に寄稿したとされる追悼文、明治帝崩御(1912年7月30日)に際しての追悼文から成っている。編者のトク・ベルツ(Erwin Toku、徳之助、1889年5月23日-1945年春)は日記にも登場するベルツの長男だ。

面白いと思ったのは、ベルツが終始「ドイツ人」を代表しているかのような物言いをしていることだ。彼の言う「ドイツ人」とは何者だろうか。ベルツが生まれた1849年には「ドイツ」という国は存在しない。所謂「ドイツ統一」はプロイセン王国を中心としてドイツ語圏の領邦国家が連合し1871年にドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich)が成立したことを指している。現在でも、ドイツの正式名称はドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)であって、限定的主権を有する16の連邦州で構成されている。各州はそれぞれにドイツ帝国以前に遡る独自の歴史と文化を持っている。

ベルツが日本で暮らしている間に「ドイツ」が成立したわけだが、そのドイツは工業化が急速に進展し、人口もドイツ帝国成立時の1871年には約4100万人であったが、第一次世界大戦直前の1913年には約6800万人へ急増している。つまり、それだけ国力が成長しているわけで、殊に鉄鋼、化学、鉄道を中心とする工業力はイギリスに次ぐ世界第2位の規模にまでなった。そういう背景の下、例え本国の成長を目の当たりにしていないとしても、ベルツが上から目線で明治の日本を語るのは仕方がないことだろう。

尤も、ベルツが接していた日本人の態度も卑屈であったようなので、日本人の側が上から見下ろされることを誘っていたということかもしれない。ただ、これはベルツとの会話でのことなので、日本人の側に多少の世辞もあるだろう。それにしても、コイツら幇間か、と思わず苦笑が漏れてしまう。

ところが—なんと不思議なことには—現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人たちはそれを恥じてさえいます。「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした(言葉そのまま!)」とわたしに言明したものがあるかと思うと、またあるものは、わたしが日本の歴史について質問したとき、きっぱりと「われわれには歴史はありません、われわれの歴史は今からやっと始まるのです」と断言しました。

『ベルツの日記(上)』岩波文庫 47頁 明治9年10月25日の記述

私は島国育ちなので、地続きで他所の国と接している感覚がわからない。想像するに、自他の接点が多く濃密であるほど、或いは、自分にとっての潜在的脅威が大きいほど、自意識は先鋭化しやすいのだろう。

日本人は当たり前のように自分を「日本人」として物事を語ることが多い印象を私は持っているのだが、ひとつの国でひとつの言語話者として生活している言語集団は、世界的に見ればかなり特異な自己認識を持っているはずだ。これは「はずだ」と考えるより他にどうしようもない。感覚のことなので、他所の人の感覚はわからない。人類の移動経路としては吹き溜まりのような位置で、結果として2000年以上の長期に亘る独自の文化を維持してきた中での「日本人」と比較可能な言語集団は他にあるのだろうか。我々が己を「日本人」として認識しているのと同じように、ベルツが己を「ドイツ人」として認識していたのだろうか、と素朴に疑問に思うのである。

1988年9月から1990年7月までイギリスのマンチェスター大学に留学していた。この当時の欧州は欧州連合結成へ向けた大詰めの段階に入っていた。結果としては欧州連合の創設を定めたマーストリヒト条約案が1991年12月9日にまとまり、1992年2月7日にイギリスも含め加盟国が調印、1993年11月1日に発効した。イギリスは欧州連合加盟の是非を巡り大揉めに揉めて、マスメディアでもそれに関連した話題がとても多かった印象がある。そこでしばしば見聞したのは「自分は何人だと思うか」という意識調査や討論番組のようなものだ。

当然、加盟賛成派は「欧州人」であると主張し、政治経済上の欧州大陸との往来や、歴史的関係を語る。反対派も別の見地から歴史的関係を語り、未だイギリス国内での分裂状況(2005年まで北アイルランドの独立を主張する人々によるテロが散発していたし、今でもスコットランドの独立を主張する勢力は一定数存在する)を踏まえて「連合」加盟の非現実性を語っていた。結局、イギリスは欧州連合に加盟したが、その後、大騒ぎの末に2020年1月31日に離脱したことは記憶に新しい。

交通や通信がかつてとは比べものにならないくらいに容易になって、人間社会や共同体の中身が変化する一方で、人間の基本的な生理は誕生した20万年前から大きく変化していない。つまり、脳の構造や容量は同じであり、自他の認識も同じであろうと考えられている。我々が相手の人となりまで理解した上で付き合うことのできる人数はその脳容量からすれば150人程度とされている。であるならば、人間社会の適切な規模は自ずと限られたものになるはずだ。その適切な規模と現実とが適合していないことが諸々不都合の根源のひとつであることは確かだ、と思っている。かといって、どうすることもできないのだが。

政治・経済・教育などの仕組みを工夫することで、互いに相手の思考を探る手間や必要を割愛する一助となる「常識」や各種制度などの共同幻想を拵えて、その「適正規模」は拡大されている。「常識」や制度はある程度は機能しているものの、人間社会を構成するさまざまな共同体を絶対的に安定させるほど強固なものではない。些細な事情で共同体内外の軋轢が激しくなれば雲散霧消してしまう。国家も詰まるところは共同幻想そのもので、世界の歴史を振り返れば、国家も一個の人間であるかのように誕生と消滅を繰り広げている。超大国がその巨大な国力を長期に亘って行使するわけではなく、盛者必衰とか生者必滅の言葉の通り、何かの弾みであっけなく崩壊する。

現代を生きる我々は、ベルツの時代のドイツと日本がその後どのような歴史を辿ったか知っている。ベルツの自意識の基盤であった「ドイツ」はそのままのドイツであり続けているのだろうか。ベルツが指導する対象であった「日本」あるいは「日本人」は当時と今とでどれほど違うのか、違わないのか。

それでこの日記の内容のことだが、これが史実に近いとすると、やはり司馬遼太郎の作品は「小説」だったんだ、ということだ。司馬の小説みたいに立派な人ばかりではないだろうし、乃木はあんなに酷い軍人ではなかったようだ。

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