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石見の港で 第594話・9.8

「さてと、次はいよいよ温泉だな」ここは世界遺産に登録された石見銀山。取材のために、この地に来ていた西岡信二は、レンタカーの運転席に座った。

「やっぱり俺は温泉がメインだ。著名な観光スポットの案内もいいが、温泉の方がやっぱり気合が入るなぁ」信二はひとりでつぶやきながら車のエンジンを入れる。「あ、ニコールからだ」信二はパートナーのニコールからのメッセージをチェックすると、その場で返事を入れる。
「『今日の夜は日本海側に出て温泉津(ゆのつ)温泉で1泊、そっちの営業もがんばって』と、よし」こうしてようやくアクセルを踏み、車を動かした。

 信二が次に目指している湯野津は、石見銀山からそれほど遠くなり離れてはいるが、温泉地自体も「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成要素として世界遺産に入っていた。
 しかし信二はそんなことよりも、昔ながらの温泉地の雰囲気、そして非常に有能な効能を持つ温泉そのものへの興味が深い。
 銀山からの山道を出た車は、仁摩・石見銀山ICから山陰自動車道に入る。自動車道と言ってもここは無料区間。しばらく走るとやがて温泉津のICが見えたのでそこで一般の道に戻ると、あっという間に日本海の前に出てきた。入り江のようになっている温泉津港に広がっているのが温泉津温泉。今夜取材を兼ねて信二が宿泊する場所だ。

 宿泊するホテルの駐車場に車を止めた信二は、とりあえず旅館のチェックインだけ済ませ荷物を置くと、さっそく取材開始。最初の目的は 薬師湯と言う名の立ち寄りの温泉施設だ。
「ほう、見ただけで楽しみだなあ」特に旧館は大正時代に建てられたとあって洋館の雰囲気を持っている。そして新館の方もレトロな雰囲気があり、そのふたつを見比べるだけでも十分値打ちを感じた。信二は取材モードに入り建物の外観を撮り続ける。

「うん?」ここで信二は誰かの視線を感じた。この日は普通の平日ということもあり、それほど人はいない。「一体誰だろう」信二は振り返った。すると、赤いスカートのようなものが一瞬見える。女性らしき誰かが施設の中に入ったようだ。
「偶然か、温泉に入りに来たついでに視線がとかそんなところだろう」
こうして信二も中に入る。

「源泉温度が45~50度の間、泉質がナトリウム-食塩泉で茶褐色の湯か、いいねえ」脱衣所で服を脱ぎ、浴槽に入った信二は、頭の中で泉質などを確認しながら、かかり湯を済ませる。
「新基準での審査で最高評価のオール5を取ったという名湯を味わおう」だが少し熱めの湯。しかし温泉ライターとして自らも温泉通との自負がある信二にとっては、むしろ熱めの湯の方が好きである。
「ううん、いいぞこの熱さ」などと頭の中でつぶやきながら、あっという間に肩の中まで浸かった。
「さすがだ、これは効きそう」信二はひとり温泉津のお湯をゆったりと味わっていく。

「さて、あとは旅館の取材だけだな。夕食と朝食のことだ。さて時間があるからちょっと港に行ってみようかな」
 港までは歩いて7分程度の距離だ。木造2階程度の旅館が並ぶ温泉街。歓楽街のような派手さはないが、このひなびた雰囲気が旅情をそそってくれる。湯上りで体が火照りながら、ゆったりと港を目指す信二も、仕事のことを思わず忘れながらゆっくりと歩く。突き当りのようになっているところで道を右に曲がりさらに進むと海が見えてきた。
「入り江になっている天然の良港かぁ。確か石見銀山で採れた銀がこの港から運ばれたんだなあ」内海のためか、波のない穏やかな入り江の海。そこで停留している複数の漁船を見ながら、信二はしばらくの間、茫然と眺めていた。

「あれ? やっぱり西岡君ね!」突然信二を呼ぶ声が聞こえる。「え?だれ」信二が声のする方を見ると同世代と追われる女性がいた。
「あっ」信二は気づいた。先ほど薬師湯で視線を感じたときに一瞬見えた女性に違いない。彼女が履いているスカートの赤色を確かに見た。

 だが信二は一体誰かわからない。「えっと」「私よ。岡東奈々子」「あ、岡東!」信二は思い出した。岡東奈々子は高校のときの同級生で、一時期ふたりは付き合っていたが、大学進学後にバラバラになり自然消滅。
「おお、懐かしい。でも何で湯野津に」「それは西岡君もよ。何でここに」「え、いや俺は温泉津温泉の取材だ」「あ、やっぱりそっちの道に進んだのね」
「ああ、で岡東は?」「私は今浜田に住んでいるのよ」奈々子の意外な答え。「浜田ってここからまだ西にある町だよな。岡東、何でそんなところに?」「浜田には父の実家があるのよ。最初は東京で就職したけど、いろいろあって、結局こっちに逃げてきた。今は石見地域の取材記者として、この地域の観光地を回っているわ」

 奈々子は少し寂しげに答える。信二は高校のときと違い、奈々子に大人の雰囲気があるため、当時と今とのギャップを感じていた。
「そうなんだ、でも本当に久しぶりだ。すごいな、こんな偶然は」信二は高校時代の懐かしい思い出が、次々と頭によみがえった。

「西岡君はこの後どこに行くの?」「今日は旅館の取材夕食とかはあるけど、まだ早いしな。さてどうしようか」
「そしたら、今から櫛山(くしやま)城跡に行かない? ここから少し歩くけど、ちょうど干潮だからいいわ」「あ、ああいいよ」奈々子に言われるまま信二は櫛山城跡に向かうことにした。
 この地域に住んでいていろいろ回っている奈々子は何度も来ているようで迷うことなく向かっている。いったん海から離れたがあるところから曲がり、やがて再び海が見えた。この間は、ふたりで高校時代の思い出話が、つづく淡い高校時代のデートのエピソードを思い出しながら楽しく語り合う。

「西岡君、ほらあの先が櫛島なの。この先は満潮時だとと水没するから今がチャンスよ」こうして奈々子は先に歩く。信二は後からついて行った。もちろん途中で気になる場所は撮影していく。
「おお、いい風景だ」城跡と言っても実際には何も残っていない。ただ180度以上のパノラマのように見える海の風景は最高だ。
「実は向こう側にも毛利元就が水軍の基地とした鵜丸(うのまる)城跡があるけど、断然こっちの方が風景がいいわ」

「うん、これは知らなかったな。岡東、いい所教えてくれてありがとう」信二は絶景を撮影しながら。奈々子に礼を言う。
「大したことないわ。それより西岡君と再会できたのがうれしいかな」と奈々子の笑顔。そしてガイドのように再び語り始める。
「櫛山城は元々鎌倉時代の元寇防塁の一つだったそうよ。戦国時代には尼子氏が毛利を攻めようとしたけど、毛利の家臣はこの城から敵を撃退したそうよ」エピソードを語る奈々子は活き活きしていた。信二は何度もうなづきながら耳を傾ける。
「それからこの城を拠点としていた温泉氏という領主の娘・玉歳姫が美しいからと、鵜丸城の城主だった作安孫三郎が、この城を攻め滅ぼしたという伝承とかがあるわ」

 語り終えた奈々子は、海の方を眺める。肩まで伸びた黒髪が風で揺れていた。そんな奈々子を見て「岡東、本当にキレイでかわいくなったな」と、信二は思った。
 だがすぐに我に戻る。「まずいそんなこと考えてたら、絶対にニコールに怒られる」と。


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シリーズ 日々掌編短編小説 594/1000

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