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はじめての仕事 第1170話・5.31

「気持ちをわかってくれてありがとう」会議が終わった時、隣の席にいた課長の一言。僕は思わず笑顔を見せる。今回のプロジェクトは僕にとっても上司である課長にとっても非常に大事なものであった。
 実はプロジェクトが開始する数か月前に大きなことが起こっている。それはふたつの会社が統合したのだ。いわゆるM&Aというやつ。と言っても対等な合併というよりも僕や課長がいたA社を業界大手のB社に買収されて事実上吸収合併をした。

 これまでもA社は業務提携や資本提携と称してB社との付き合いはあったが、正式にB社に吸収合併が決まってからというもの正直生きた心地がしない。まず早期退職者が募られた。B社に吸収されることを快く思わなかった者やそもそも能力的にと言った人たちはそこでふるいにかけられるのだ。

 場合によっては部署そのものが消滅という道を歩んだところもある。だが僕や課長のいる部署は違った。そこはA社の中でも最も重要な部門で、B社にとっても本音では僕たちの部門が欲しくてこの話を持ってきたのではと言えるほどのところ。だから僕も課長もB社への転籍になったときにこれまでの待遇は保証されたのだ。

 という流れではあるが、といっても新しい会社の所属になったのだから不安は付きまとう。課長をはじめ僕のいる部署は20名、ほぼそのままの転籍でかつオフィスもそのまま。と言っても会社の名前が変わったし、会社のロゴも変わる。少し前に新しい会社のロゴが入った名刺が配られた。さらにこれは僕よりも受付の女性社員のほうが大変だったかもしれないが、社名が変わったから当然名乗りも変わる。転籍後に初めて僕が電話に出たとき、前の社名を言わないか正直、気持ちが焦ったものだ。

 こうして僕は新しくB社社員になったわけだが、ここで新しいプロジェクトを立ち上げることが決まった。課長の上司に当たる人物はA社時代の部長ではなく、B社にずっといた人だから課長にとってはやりづらいだろう。B社からすれば「お手並み拝見」といったようなことだったのかもしれない。

 いつもにこやかな課長も、初めて部長に会ってプロジェクトの指示を受けたときの表情は今でも忘れられない。あんなに硬直して渋い表情をしている課長はおそらく初めて見ただろう。

 この後課内で会議が行われ、いよいよB社に転籍してから初めてのプロジェクト。つまりB社社員として、はじめての仕事がスタートした。といっても最初はどのような計画があるのか課長の上司つまりB社の人間に見てもらう必要がある。
 この会議が正直一番気がかりであった。内容によれば上から「A社の人間はこんなレベルの」というような意味合いにとらえかねない。そのような内容を出さないようにしなければならないのだ。

「考えても無駄だ。今までの実績があるから部署はそのままなんだ」課長はそう言って僕たちを励ましてくれた。 

 こうして計画を発表する当日、課長が代表して計画の内容について発言する。
その時に課長は何人かの課員を同行させた。僕は当初課長ひとりは不安だったのではと思ったが、まあプロジェクトの実質的なリーダーとサブリーダを同席という事なのだろう。そうこのプロジェクトは僕が実行部隊のリーダーとしての案件だったので、この会議に同席した。

 だた発表は僕ではなく課長が自ら行う。実際のリーダーではなく管理職の立場の者が説明したためだろうか?同席していた部長や担当役員さらに社長の姿もあったが、みな怪訝そうな表情をしていた。僕はそれを見て不安になったが、課長はためらうことなく説明を続ける。

「以上です」課長の説明が終わった。部長や役員からの質問はあったが、それは主にスケジュール面でのことやそれに必要な経費についての質問であって、プロジェクトの本質ではない。
「うん、よし、それで行きなさい」こうして社長からの承認をもらう。

 この直後だ、「気持ちをわかってくれてありがとう」と、課長は小さく口走った。それはビジネス的な発言ではなく、率直な感想のように聞こえる。 
 だが部長や役員、社長たちはその言葉に気にすることなく、黙って立ち上がると静かに退室していく。聞こえなかったのかもしれない。いや聞こえたが、あえてそれに対して反応しなかったのだろうか...…。
 だが僕が思わず笑顔になったのは、この日まで不安でいっぱいだったからに他ならない。B社の上役が静かに立ち去るのとは対照的に僕が笑顔を見せたのがよほどうれしかったのか、課長も思わず口を緩ませた。

 だがこれはあくまで計画の話に過ぎない。本番はこれからだ。僕も課長もすぐに顔の表情を元に戻すと、B社社員としてはじめての仕事を成功に導こうと、自分たちのオフィスに戻るのだった。

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