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チンチン電車が向う先 第577話・8.22

「ちょっとね。摩耶は疲れすぎ。何があったのか知らないけど。あまり症状がひどかったら、病院行った方がいいわ」
 紗香は摩耶が公園の噴水で見たという、怪奇な出来事をカフェで、延々と聞きながらも、思わず反論した。
「ごめん、でもほんとあれ、夢と言うよりリアルだったから」摩耶は言い訳にもならないことを言うが、紗香は顔の表情ひとつ変えず、立ち上がりレジに行く。

「まあいいわ、ねえちょっと遠くに行かない」「え、遠く?」摩耶は紗香に言われたことで少し落ち込み、声も小さい。
「そう、私ね。もう摩耶が心配なの。夢を真に受けるとか。ちょっとショートトリップして気持ちを開放的にならなきゃだめだわ。何で大きな蚊が目の前に現れる」
 と言いつつ紗香は、自らの蚊のイラストが描かれているTシャツに一瞬視線が行く。

「あ、あれ乗らない!」紗香の声に摩耶が顔を上げると、そこにあるのは路面電車の停留所。
「え、チンチン電車乗るの?」摩耶が嬉しそうに答える。だが紗香のテンションは変わらない。「あの、チンチン電車って、言い方古いわね。今はそんなんじゃないわ。LRTっていうのよ」「え、エルアールティー?」摩耶は聞きなれない言葉に一瞬戸惑う。
「でも、おばあちゃんがいつもチンチン電車っていってたし」
「まあ、昔の人はね。でもチンチンなんて言ったら、男子の前について」「ちょっと紗香! こんなところで」思わず顔を赤らめる摩耶。さすがの紗香もそれはまずいと思ったのか、口を押さえ周囲を見る。幸いにも誰にも聞かれていなかった。
 そんなことを言っているうちに、路面電車が停留所に近づいてきた。紗香が言うように、新しい車両には、車掌が運転手へ合図に、紐を引いて鳴らす鐘の音など聞こえない。聞こえるのはやや低温のモーター音。しかしこの日はそれに加えて、リズム感ある重低音が聞こえているような気がした。

「さ、乗るわよ」摩耶は普段の生活圏からずれているためか、本当に久しぶりに路面電車に乗る。紗香はそこまでではないがそれでも半年ぶりだろうか。
 乗り込むとバスのようで少し違う。席は空いていたのでそのまま座る。やがてドアが閉まると、ゆっくりと路面電車は動きき出す。モーター音からしてバスと違った。そのためか摩耶は新鮮な気持ちにになる。エンジンの音と電気を集電して発する音の違い。そんな細かいことは、このふたりは全く分かっていないが。

「で、どこに行くつもり」「え、決めてない」紗香の意外な言葉、摩耶は少し不安になった。
「なに、今すごく不安そうな顔した!」「え、いや、そんなことないよ」
「いいのよ、摩耶は気にしすぎ。別に今日は夜までたっぷり時間があるし、それにLRTなんて都市交通だから、遠くに行ったって知れているのよ」
 全く余裕の紗香。摩耶はまだすっきりしていないが、紗香のそういうところで安心した。

 路面電車は指定された停留所に止まっては、淡々と客を乗り降りさせる。終点は港だ。紗香はこのまま終点まで行くつもりでいた。車窓からの風景は相変わらず、都市交通だけに建物が隙間なく続いている。
 だが少しずつ港に近づいたためか、ビルに交じって倉庫が増えてきているような気がした。
 そして気がつけば乗客がほとんどいないという事実。いつしかすべての乗客が下車していて、残っているのは摩耶と紗香のみ。

「あれ、いつの間にか誰もいない」先に摩耶が気付いた。「まあね、港で働く労働者でもない限り、平日の昼間なんかに港には行かないわね」紗香は楽しそう。普段見ない港湾の風景。倉庫が並ぶが、古くて赤茶けた倉庫が立ってて、町中では見られない大型のトラックやフォークリフトが行き来している。
「この倉庫の裏で、やくざとかが麻薬の取引してそうね」紗香はますますうれしそう。摩耶は嫌じゃないが、そこまでうれしくはない。

「あれ」摩耶は突然聞こえたものに反応した。「これチンチン電車の鐘?」「なに、まだチンチンの話してるの?」「いや、だって確かに『チンチン』って音がしたよ」
「もう、摩耶はさっきも言ったように」と言いかけたときに、紗香も聞こえたチンチンと聞こえる電車の鐘の音。「あ、聞こえた。確かに」その後沈黙が続く。

 やがて電車は終点に到着した。「あ、降りよう」と、ふたりは港の停留所で降りる。摩耶はすぐに車両を見た。「あ、」思わず声が出た。その車両は昭和の時代に活躍していたような古い路面電車の形をしている。
「ねえ、やっぱりチンチン電車」「はあ? でも確かに聞こえたよな」紗香も振り向く。確かに古い路面電車。「え、あれ?」しかしもう一度見るとLRTの最新の車両に戻っている。
「ええ?」紗香は頭が混乱し、急に表情が固くなった。「私も疲れている? マジで」

 今度は摩耶の方が明るい。「ね、そうだったでしょ!」 そういって嬉しそうに海の方に行く摩耶。紗香は首をかしげながらついていく。
「ちょっとまって摩耶早い!」紗香が追いかけるが摩耶は、あっという間に波止場の上まで登ったと思うと、そのまま下に降りる。
 紗香は後を必死で追いかける。そして波止場の上まで来た。しかし目の前に海もなければ摩耶もない。あるのは路面電車の車庫。「え、なんで」そんなこと言っている間もなく一両の路面電車が突然こっちに向かっていく。「え?」どうやら先ほど見た古い形の路面電車。『チンチンチンチン』と、警笛のように、繰り返し激しく音を鳴らす。そして猛スピードで紗香に迫った来た。「ちょっと、キャー、助けて!」

「紗香、起きて着いたよ終点」「あれ、夢、え、私も摩耶みたいになってる? あ!」状況が読み込めない紗香。全身から汗が流れているのを感じる。
 紗香はいつの間にか眠っていたらしい。摩耶に起こされると確かに終点に到着していた。「紗香降りるわよ、海見るんでしょ」摩耶は先に立ち上がって降りていく。
「あ、ちょっと待って」紗香は摩耶が先に進むので、慌ててついていくのだった。

 

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シリーズ 日々掌編短編小説 577/1000

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