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霜降 第639話・10.23

「圭さん、これ霜降だよ」石田圭は妻のベトナム人ホアがパソコン画面のある画像を見せようとするので、それを見た。「うん、霜降り?ホアちゃんこれは違うよ。霜降りは牛肉の赤身の中に脂肪が入り込んだ高級な肉のこと。これは霜が降りた紅葉の写真じゃないか? それより幸ちゃんはちゃんと寝ているの」
 7月に待望の男の子が生まれ、ホアの故郷ベトナムの「越」から幸越と名付けた。ふたりともその子供のことで頭がいっぱいで、常に子供のことが気になる。「いま、すごく静かに寝ている。寝ているときは部屋にいない方がいい。また起きたら大泣きする。圭さん見に行ったらダメ!」

 最近はいわゆる『夜泣き』という現象が始まりだしたこともあり、ホアは起きないように細心の注意を払う。だから寝ている間は隣の部屋に来て、物音を出さないように気を遣う。

「ああ、わかっている。行かないって、元気で寝ていたらそれでいい」圭は子供の寝ている方を見てつぶやく。
「圭さんそれより、これは霜降だって、立冬の前にあるセッキだよ」「セッキ、立冬の前、ああ二十四節気か、そういうのあったなあ」圭が頭を悩ましていると、ホアがさっと調べた。
「これだ! あ、シモフリじゃないソウコウだって」「え、そうこう? 霜降と書いてそう読むのか。じゃあ牛肉とは関係ないんだ」
「うん、これを見ると『露が冷気によって霜となって降り始めるころ』なんだって、あと『楓や蔦が紅葉し始めるころ』ともある」
 日本文化にあこがれて日本の京都に住んで、圭と知り合ったホアらしい。一般の日本人が知らないような日本の風習や季節感には非常に敏感だ。

「そうか、今日はその霜降というのか、その前が10月8日の寒露(かんろ)。これも聞いたことがあるような、ないような」圭は腕を組んで考え込む。
「以前だったら、その霜降を見に外に行こうと言えるけど、今は」「あたりまえだよ。幸ちゃん放って出かけたらダメ」圭の顔が真顔になる。

「わかった。じゃあ、幸ちゃんが起きたら」「うん、まだ午前中だから。午後になったら起きるんじゃないか」

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「あ、幸ちゃん起きたよ。外に行こうよ圭さん」圭の予想通り午後になって目が覚める幸越。それを見て出かけられるとばかりにうれしそうなホア。圭は口元を緩めながらも目が真剣。「とりあえず幸ちゃんに」「あ、わかった」ホアは幸越を抱きかかえると、母乳を与える。

 こうして買ったばかりのベビーカーに幸越を乗せると、ふたりは少し暖かい服装で出かけた。
「あまり遠くには行けないからね」「わかってる。近くの公園に行けばあるかも」
 だがこのときふたりは大きな勘違いをしていた。確かに急に肌寒くなったが、まだ10月。露が冷気の影響で霜が降りかかるとすれば、朝早い時間、北海道ならいざ知れず、京都市内での午後でさすがにその雰囲気は残っていない。

「うーん、霜なんてないね」ベビーカーを押しながら、近所の公園に来たふたり。落ち葉などに霜がついていないか見るが、そのような痕跡はない。そのうえ、この日は天気も良く晴れているため、太陽の日差しが照りつくところなら温かい。
「そうだ、ホアちゃん。ベトナムでは霜なんてないんだよね」
「うん、冬は涼しいけどハノイの街中に住んでいたときには、さすがに見たことないかな。山の方、サパとかあのあたりに行けばあると思う。でも私が見たのは京都に来てからだよ。霜にしても雪にしてもみかけたの」
 そんなことを言いながら、ベビーカーを放置したまま、真剣に霜がないかホアは探した。圭は苦笑いを浮かべながら、ベビーカーに乗っている幸越を見る。細い眼が開いているが表情ははっきりしない。
「まだ公園とかわからないかな。生後3か月じゃあねえ」

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「やっぱり昼間だから無理みたい」ホアがあきらめたのか、寂しそうな表情。「仕方ないよ。でも確か、紅葉のことも言ってなかったか」「あ!」ホアは思い出す。「楓や蔦が紅葉し始めるころだ」
 再びホアは探し出す。今度は木の方つまり楓や蔦の木。「もう、幸ちゃんごめん。お母さんは珍しいもの探すの好きだからね」圭はひとりで公園を歩き回るホアを遠くで見ながら、幸越に話しかけた。

「あ、圭さん。あった!」ホアが何か見つけたようだ。「え、見つかったの霜降の足跡」圭はベビーカーを押しながらホアの方に向かう。「ほら、あれは楓だ!」ホアが指さすと楓の木がある。「うん、確かに楓の木だ、うーんでもまだ紅葉と言うより青いな」圭はじっくり楓の枝を見た。「こっち、ほら」ホアがさらに指さす。「お、ここは確かに赤くなりかけている」
 緑がメインの中でもホアが見つけたところは確かに赤くなっている葉がある。全体的に赤っぽい朱色になっている葉があるかと思えば、枝の部分だけが赤っぽいもの、あるいは赤い部分が緑の中でまだらになっているものなどが混ざっていた。

「確かに、紅葉し始める楓。そうかこれが霜降(そうこう)ということか」圭は初めて知った言葉とそれに近い現象を見て何度もうなづく。その横ではホアが紅葉しかけの楓をスマホで撮影した。
「それ、SNSでUPするの?」とすかさず圭が質問。「うん。霜降と言うタグをつけて」と即答しながら満面の笑みを見せるホアであった。


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