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待ち構えていた招き猫 第615話・9.29

「これ、お店にどうぞ」ここはクラフトビールの専門店。フィリピン人店長のニコールサントスは、初めて来たひとりの化粧の濃い着飾った女性客の対応に戸惑った。
「え、で、でも」「いいの、いいでしょ。ここに置いて。ね」いつもならカウンター席は常連客でいっぱいになるが、どうもこの日は常連客は誰も来ない。交際相手の西岡信二ですら今日に限っていないのだ。

「シンジ、今日は取材とか言ってないのに、どうしたのかしら......」とにかくこの女性客は早い時間からカウンター席に陣取ると、ニコールに色々話しかけてくる。ニコールは初めてなのに、相手はやたらと店のことを知っている。
 その理由を問いただせば「ネットの情報」なのだという。

 そんな客の相手は普段ならそれほど苦労しないニコールであるが、今日の目の前の相手は少し厄介だ。挙句の果てには「客が増えるように」と、小さな招き猫2体を勝手にカウンターの上に置く始末。
「店のイメージ違うんだけど......」戸惑うニコールをよそに、ご機嫌よくビールを注文して、豪快に飲んでいる女性。安易に断るわけにもいかない。だから彼女がいなくなったら外そうと機会を狙っていた。
「まだかしら。そろそろよね」女性客がビールを片手に呟く。少し顔が赤くなっているが、完全に酔ってはいない。相当酒が強いのだろう。

「今日は、どなたかを待ってらっしゃるんですか?」ニコールは女性の一言に反応した。もし待ち合わせで相手が来れば、あとはその相手に任せればよい。「ええ、そうなんです」と女性。
 それを聞いてニコールは内心安心した。「遅れているんですか?」「多分、遅い時間になるとは言ってましたね」と女性。
 それにしても2時間以上も前からひとりで立ち寄って飲んでいるとは相当な酒好きなのか? 「まさか!」ニコールはここで嫌な予感がした。もしかしたら待ち合わせた相手が約束を反故にしたのでは......
 となると非常に厄介だ。今は理性を保っているが、待ち人来ずとなれば、いつ荒れだすかわからない。ビールの店の性格上、ある程度の覚悟はできているが、何しろ初めての相手。飲みすぎたらどうなるのか、ニコールはまだ読めないのだ。

「シンジ来ないのかな。あいつが来ればどうにか」ニコールは信二が来ないことにいら立っていた。客として飲みに来る信二ではあるが、いざとなったら助けてくれるのは彼しかいない。
 客の女性はグラスに3分の1入ったビールを一気飲み。「じゃあ、こんどは」と、今度はベルギーのアルコール度数が高めのビールを注文した。

「あ、わかりました」まだ酔っていないようだから、言われたとおりにビールを出すニコール。「これが最後、それまでにシンジか、この人が待っている人が来ますように」
 ニコールはビールを準備しながら思わず、招き猫に視線を落とした。

 女性が注文したのは、ベルギーの修道院で作られているというトラピストビール。聖杯のような形をした専用グラスにビールを注いでいく。見事に瓶の中身がグラスになみなみと注がれると女性の前に出す。女性は口元を緩めると、ゆっくりと口の方から近づけて飲みだした。

 このとき、入り口のドアが開く音がする。女性はビールを飲んでいるために振り向かないが、ニコールは思わず凝視。すると信二の顔が見える。
「遅い! 今日は何してたの」安ど感もあって思わず信二を攻めるニコール。信二は手を頭の後ろに置きながら。「ああ、ごめん。ちょっとクリーニングを引き取っていたんだ。ほら、今日はクリーニングが終わったばかりの服で来たよ」

 信二はそう言いながら女性の隣の席に座る。「何する。いつもの」「おう、ギネスの生ね」
 ところが、ビールを飲み終えた女性が突然信二の方を向くと「あ、西岡君! 待ってたわ。良かった2時間よ。もう遅いわ」と信二と待ち合わせしていたといいだした。ニコールは慌てつつ信二の方にやや強い視線を向ける。信二は目を大きく丸めて必死に否定。

「良いお店ね。ここ気に行ったわ」と女性。信二はこの女性が一瞬誰かわからなかった。しかしよく見るとようやくわかる。「え! まさか岡東? 何で」
 信二が岡東といった女性、実は信二が少し前に島根県の石見に取材に行った先に偶然に出会った岡林奈々子だったのだ。石見のときと違い、服装もメイクも派手になっていたので最初は気づかなかった。ニコールと知り合う前に交際していた奈々子は、信二の元カノと言える存在。数年ぶりに再会したのは確か。しかしあのときは、石見で働いていると聞いていたから、頭が余計に混乱した。

「びっくりした? そう石見の仕事を辞めてこっちに来た」と言い出す奈々子。「え、ちょっとなんで?」「だって西岡君に、会いたかったもん!」と甘え声をだした。

 そんなやり取りを見て、いら立ちを隠せないニコール。しかしテーブル席にほかの客やスタッフがいるから、感情を表に出せない。ただひたすら信二の方を睨む。信二はどう説明していいかわからない。
 石見で懐かしい人に会ったことは軽く話したが、まさか都内に来るとは夢にも思わなかった。ただ目を白黒しながら狼狽する。奈々子は信二に再会できたことでよりうれしそう。満面の笑顔でビールに口をつける。
「ほら、西岡君。ここに来てくれると思ったから。洋菓子買ってきたよ」と今度は持っていた紙袋から洋菓子の入っている箱を出してきた。
「え、え??」慌てる信二。その前では強い衝撃の音が鳴る。明らかにニコールが怒っているのが分かった。だからより慌てる信二。
「いや、ちょっと、ちょっと待って、ニコール、これは誤解。違うんだ!」大声で状況を否定する信二。
「じゃあ、わかりやすい説明を!」強い棒読み口調のニコールの目は、信二を睨んだまま。

「西岡君、この店長さんて?」「え、あ、いや今彼女とだな。その、ていうか、お前何で来たんだ?」信二は奈々子に怒りをぶつけようとする。
「何でって、石見のときの会話忘れたの?『もし東京に来たら、この店に来いよ。いろんなビールが飲めるんだぜ』って」「ええ、ああ.......」ようやく信二は思い出した。
「だから私は『そしたら今度洋菓子買ってくるわね』って言わなかったっけ。今日はその約束を果たしたんだけど」
「あ、ああ、そういう会話したな。でもそれって社交辞令......」

 信二は顔色が変わったまま、恐る恐るニコールの顔を見る。しかしニコールは状況を理解したのか「はい、わかりました」と突然笑顔が戻る。
「あのその洋菓子っていくつ入っています?」と、今度は洋菓子の箱に視線を向けた。「え、ああこれね。8個入りですけど」
「だったら」ニコールは店内を見渡す。店内にはこの3人の他、ひとりのスタッフと4人の客がいた。
「今店内にいるのはちょうど8人。もしよろしければ皆さんで」とニコールの提案。奈々子は一瞬真顔になり、信二を見る。信二は顔を震わせながら視線を避けた。「いいわ。店長さんにお任せします!」とニコールに対して作り笑顔を見せる。

 こうして8個の洋菓子が、店の中にいる人全員に配られた。奈々子は自分の洋菓子をすぐに口にくわえて食べ終えると、そのままビールを一気飲み。
「おい、それ濃くないか」慌てる信二をよそに飲み干す奈々子。
「西岡君、じゃあまたね」というと立ち上がり、そのまま会計を頼む奈々子。それに対して冷静に淡々と接客するニコールの姿がある。こうして全く酔ったそぶりも見せない奈々子は信二に笑顔を振り向けて店を出た。
 信二は何となく、ニコールと奈々子ふたりの女性の間で、嫌なことが起こりそうな気がしてならない。奈々子を避けるように視線を置くとそこにあったのは、奈々子が置いていった招き猫。「これ本当は福を招くはずなんだけど」信二はそれを眺めながら、グラスに注がれたギネスビールを一気に飲み干すのだった。


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