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泊まってよかった宿 第1036話・11.29

 私はしばらく湖畔を眺めると、無意識にこう思った。「そうだ絵を描いてみたい」と。「絵を描いてみたい...…」私にとって久しぶりに思ったこの感情。そうずっと絵を描くことを忘れていた。

 私は子供時代は順調な人生を歩んだ。だが注の順調な人生というのはあくまで両親の希望に過ぎない。だけど私はその両親の期待通りに生きることが正しいと信じ込んでいた。だから国立の大学を出て、いわゆる上場企業への就職を果たしたのだ。

 こうしてエリートコースを目指すべく社会人としての新たなる人生を歩むものだと思っていた。11月中旬に呼び出されたときまでは。

「今知っていると思うが、本当に業績が悪くてな。悪いが来年から子会社に行ってほしいんだ」入社10年目にして上司から言われた言葉に、私は次の言葉が浮かばない。だけど社命である。たとえ子会社と言えど、あくまで元の会社の社員としての地位を残した状態で子会社出向であった。

 だがそれは間違いなく出世コースからの脱線を意味したのだ。「私もここまでか」正直にそう感じた。
 
 それからの私は少し荒れてしまう。本来なら思春期に経験すべきグレるというのに近いのかもしれない。だが学生のころのグレとは違う。気持ちはそうだが、それは社会人。今の身分を脅かしかねないリスクは負わない。単なる気持ちの上でのグレに過ぎなのだ。
「ダメだ、どうしたらいいの」私の中で混乱が続く。仕事への意欲は急激に減退した。かといって独立するようなスキルもない。このまま残存人生を当たり障りなく過ごすしかないのだろうか?

 12月を目前にしたある日、私はあることを思いついた。それは今までほとんどとってこなかった有給休暇の大量消化であった。出世コースにいたこともあり今までがむしゃらに働き、溜まっていた有休が1か月近くある。

「申請通るかな」と思ったがすんなり通った。私の会社は冬の間はちょうど閑散期ということもあったのかもしれない。だけどもう本当は私は用無しなのかもしれないのかとも。
「これだけ頑張ったんだ。リフレッシュしよう」

 私は旅に出た。実は密かに気になるところがあって、そこを目指すために運転席に座ると車のエンジンを動かす。
「ここね」自宅から高速道路を使い半日近く走る。やがて山に囲まれた湖畔にきていた。
「写真とは違う!」到着した私は驚きのあまり目を見開いた。言葉では表現できない、幻想的な風景だ。目の前に見えるのはあたかもおとぎの国のように見える世界である。とてもこの世のものとは思えない。

 その湖畔には一軒の建物がある。貸別荘だ。「へえ、一か月だとこの値段で」私はその別荘1棟をまるまる1ヶ月借りることにした。もちろんネットで手続きを終えている。貸主からメールで送られてきたパスワードを入口のボックスに入れれば、そのボックスが開き、中には鍵が入っているのだ。

「ホテルだと至れり尽くせりだけど、宿泊期間が長いからこれでいいわ」
 私はここに来る前にすでにスーパーに立ち寄り1週間分の食料を確保した。このまま1週間この場所にとどまり、食料が尽きればまた町に出ればいい。幻想的な世界が広がっているが、ここからスーパーのある町までは車で30分もかからないところにあるので不便はない。

「もちろんWifiも完備しているし、パソコンも持ってきたしと、あ、そっか」私は今頃になって気づいた。しばらく仕事から離れた生活をするつもりだったのに、これではテレワークをこの別荘でやろうとしているではないかと。

「違う、違う、もっと趣味に生きなくては。と言って私の趣味って?」
 仕事一筋で生きてきた私にはこれといった趣味はない。休日はあったが外に出ることなく、テレビを前にだらだら過ごしていただけだ。

「でも、せっかくだから何か新しい趣味を見つけたいかな」と思ったが、まだ別荘に到着したばかり。「まずは別荘の部屋を探訪しようかな」最初に私は別荘にある部屋を見て回ることにした。

 この別荘は10人くらいは泊まれるほどの広さで、私が荷物を置いたメインの部屋の隣にはツインのベッドがある。私にはまだ相手がいないが、相手がいる人にとっては心地よいのだろう。

 同じような部屋があとふたつあった。「なるほど、でもここは使わないか」私は2階に上がってみる。「確か4人が泊まれる部屋があったわね」そう言って階段を上がると、そこは畳が敷いている和室だ。「洋館のような別荘なのに、和室があるのは日本らしいかな」
 私は、畳の上でごろりと横になった。畳の部屋はいつ以来だろう。実家を出てからは初めてかもと思いつつ、畳からつたわるイグサの香りが鼻筋を通ってくる。

「さて、下に降りようか」30分くらいその場所にいた私は下に降りた。先ほどの部屋と反対方向にはキッチンがあり、バスタブとトイレがある。
 そのとき、私は視線からキッチンとは反対方向に、小さな部屋の入り口があるのを見つけた。
「何があるのかな」私はそのままその部屋のドアを開ける。するとそこは、アトリエのような部屋で、画材道具が置いてあった。横にはメモがあり、「自由に使ってください」とのこと。正面は開け放たれた縁側になっていて目の前に湖が見える。
「へえ、これは、素敵ね」私はかつてここで絵を描いていた人が結構いたんだろうと想像してみた。

「え!」私はこのとき全身から電気のようなものが走る。
「もしかして、私...…」私は何かを感じると、その場所に置いてあった絵の具のキャップを開けて絵の具を出す。そのまま無意識のうちに筆を走らせる。
「え、描けるの。ああ!そうそう、思い出した」一気に私の頭の中から記憶が鮮明に読みがる。私は思わず大声を出す。
「そうか私、絵が描けるんだった」私は学生時代は美術部で絵を描いていたことを昨日のことのように思い出した。「あんなに絵を描くのが好きだったのに」
 私は大学を卒業し社会人になって、出世コースから離れないように仕事に没頭。いつしか絵を描くことを完全に忘れていた。

 久しぶりだから私の筆使いは最初はぎこちなかったが、徐々に体が思い出させてくれたのか私はいつの間にか、抵抗なく絵を描いている。
「いい、これ、この1ヵ月は絵を描き続けるわ。この素敵な湖や山々を」私は突然楽しくなった。

 スケッチレベルだが絵を描き終えたときには、夕暮れが迫っている。目の前は東方向なので夕暮れより朝焼けの方が楽しみだが、徐々に日が落ちていく色の変わりようが心地よいのだ。
 私はまだ1泊もしていない。だけどこの貸別荘選んだことと、ここを宿として長期間泊まれて良かったと確信した。



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