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湖上のボートで 第538話・7.14

「おい、約束通り湖の真ん中まで来てやったぞ。さあ約束のモノをよこせ」 
 男はボートのオールから手を離すと、ボートに同乗している女に伝えた。
「フフウフフフ」女は不敵な笑い声を出すと。「まんまと引っかかったわね、愚かな男」と冷徹な口調でつぶやいた。

「な、なに。まさか例のモノ」「ええ、当然ですわ。でもまさかこんなに簡単に引っかかるとは、愚かなこと」
 女は男を軽蔑するように言い放つと相変わらず涼しい表情。当然男の怒りはアップする。
「き、貴様。よくも俺様を」男はは怒りのあまりに全身が震えている。「そもそも、あなたが言うモノ。私は所持していないわ」

「な、なんだと! どういうことだ」男は声を荒げる。「だって、そうでしょ」女は立ち上がった。少しボートのバランスが崩れ左右に動く。
「そもそもあなたが突然私に『例のモノを持っているだろう俺によこせ』といったわね」

「おう、そうだ。だが、もちろん何の根拠もなく言うはずもない。しっかり興信所に依頼させてもらったさ」男は不敵な笑みを浮かべる。「興信所?」「そうさ。つまり探偵を使って、お前の周辺を徴させてもらった。そうすればホレ、これを見ろよ」
 男はズボンの右ポケットを手に入れると、一枚の写真を女に見せる。女はそれを見た。しばらく黙っていたが。突然顔色が変わる。「な、なぜ......」

「クククックク、アハハッハハアハハ!」男は大きく笑った。「どうだ、これが動かぬ証拠ってわけだ。お前が持っていないと言い切っている『モノ』。その写真が動かぬ証拠だ、ちゃんと持ってるじゃねえかよ。さあ、大人しくこっちによこすんだ」

「ち、ちょっと待って!」泳いだ目をして体を震わせた女が、意外なことを言う。「これは、私ではない」
「はあ、お前、何とぼけてんだ。私ではない? 何言ってんだ」

「ほ、本当よ。私ではない。私に似た他人よ」
「おいおい、往生際が悪いな。おい、何が『私ではない』だ。今のお前と全く同じじゃねえか!」ついに男は最大限の声を出して女を恫喝。

「なら、この写真いつどこで撮影したのよ」「はあ、ち、往生際の悪い女だぜ」男はズボンの左ポケットに手を入れた。そこにはメモが入っている。

「ちゃんとメモがあるんだぜ」男はメモを開き、その写真が昨日の午後2時に女の自宅前で撮影したといった。
 静かに聞いていた女、ここで不敵な笑いを浮かべた。「うふふふふ。やっぱりね。私はその時間にそこにいなかったわ。と言うことは別人よ」

「おいおい、適当なこと言ってんじゃねえぞ女」男はまた不快な声を出す。「お前がこの時間に、この場所にいないっていう、アリバイとかあるのかよ」そう言って男は立ち上がる。ふたりともボートに立った状態は、非常に不安定。
「あるわ」女はそういうと服の中から一枚の写真を出した。「この横の男性が誰か知っているわね」
 男は写真を見る。「これは、ほう有名な俳優だ。お前なんでこいつと」女は得意げに口を開いた。「その方とは遠い親戚なの。ちょうど昨日この方が主演する舞台の当日。私は楽屋に挨拶に行ったわ。そのときの一枚よ」
「で、それがどうしてアリバイになるんだ」「それはこちらね」女が見せたのはチケットの半券。
 男はそれを見た。「うん、つまり先ほどの撮影した時刻は、舞台が始まる10分前」「裏に記載している会場も見て頂戴ね」男は半券を裏返した。
「このホールからなら、どういう手を使っても最低30分はかかる。つまりお前はこの舞台が始まる直前に楽屋にいた。おそらく舞台も見ている。だから『この場所にいるはずがない』といいたいんだな」

「そういうこと。つまり私はこの写真の人物とは違うのね」「じ、じゃあ誰だっていうんだ。お前に双子の姉か妹でもいるのか?」

「いないわ。だったら......」女は先ほど男が見せた、自分そっくりの写真をもう一度見た。今度はじっくりと目を皿のようにしてみている。やがておびえた目をしていて口が震えだした。
「おい、どうした。そんなおびえた目をして」「え、これって私の生き写し。まさかドッペンゲンガー......」

「ドッペンゲンガー? えっと同じ人物が別の場所に同時に現れたか。なるほど。それでお前ではなく、もうひとりのお前がモノを持っていたと。ハッハハハハ! こりゃおもしれえや」男は腹を抱えて笑った。

「笑いごとじゃないわよ!」女の目が真剣になる。「ドッペンゲンガーを見たと言うことは、私の命が残りわずか......」女は恐怖におびえた目をしている。

「ドッペンだが、ぼっぺんだが知らねえが、気にしすぎじゃねえのか。世の中には、全くそっくりの人が3人いるって聞いたことがあるぜ。まあ余計なこと気にすると」と男が言いかけたとき、遠くから雷鳴が聞こえた。見ると分厚い雲が、湖の対岸側からこっちに向かっているではないか。

「ま、まずい。こりゃ一雨来るぜ」「え、雷、まさか私それに撃たれて」女はしゃがみ込み、体を丸めて震えだす。完全に恐怖に陥っていた。
「おい、まて雷なんて目の前に落ちたらこっちもやばいぜ。とりあえず岸に戻ろう」
 男はそういうとボートに座り、オールを手にした。そして慌てて漕ぎ出す。「湖の対岸までは15分くらいで戻れるはずだ。それまでもつかどうか」
 男は必死で漕ぐ。だが後ろからの恐怖のためか手が空回り。「お、おい、お前、さっきから何震えてねえだ。そんな暇があったら手伝え!」
「え、え、」女は震えて動かない。「てめえ死にたくねえのか。そのままドッペンに殺されるのを待っているのか?」「え、いえ」
「だったらつべこべ言わず、そのオールを持って漕げ!」男の劇に女は体を震わせながら、オールを手に漕ぎ出す。湖の水面の上の方をぶつけているためそんなに貢献はしていない。だが女も必死。男もとにかく岸辺に向かうことに全神経を集中させた。

 厚い雲は確実に向かっている。生ぬるい風が吹き付ける。雲のある方から吹き付けているようだ。「あ、」女は声を出した。「し、しまった雨がきてる」どうやら風に吹かれた雨がふたりの所まで到達した模様。空を見ると完全にどんよりとした曇り、いつ雨が降ってもおかしくない。

再び雷鳴が聞こえた。幸いにもまだ遠い。「いそげ、俺はまだ死になくない」「私もよ!」ふたりは我も忘れて岸辺に向かってオールを漕ぐ。そのためか、岸辺にあるのボート係留の場所が、視界にはっきり映ってきた。

「うあ!」今度は男の声、近くで光った。それから10秒くらいで雷鳴が聞こえた。先ほどよりも確実に大きい。もはや心臓が張り裂けそうな男と女。間に合うかどうかわからない。ただ可能性をかけて必死に漕ぐ。
「よしあと5メートルだ」男の喜びの声。女は最後の力を振り絞り、ついにボートは岸辺に到着した。「急げ、早く屋根のある建物だ」男の激に女もあわててボートを降りる。ちょうど頭から大粒の水が落ちてきた。
「早く、あそこに小屋があるわ」「おお、あそこだ」

 大粒の雨はどんどん数を増やして落ちてきた。強い風も吹く。そして空は完全に暗黒世界のような分厚い雲に制圧された。「よしついたぞ。ドアが開いている。入れ!」女が入ると男も入る。直後に突然の大雨。そして稲光と激しい音がした。それも今までと違う強力な衝撃音。近くで落ちたことは間違いない。

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 30分が経過した。雨は小雨になり、遠くの空は明るくなっている。「た、助かった」先ほどまで震えていた女は、ようやく正気を取り戻す。
「ああ、どうにかな」「もう止みそうね。そしたら私ひとりで先に帰ります」「そうか、わかった」男に見送られるようにして、女は先に部屋を出た。

「ふう、どうなるかと思ったぜ」男は湖をしばらく眺めている。雨はどうやら完全に止んだようだ。「さて帰ろうか」男も建物から出た。そして歩き出すこと数分後「あれ? 俺何してたんだ。あ、女 しまった!」男は女からある「モノ」を奪うつもりでボートまで漕いだのに、その女に逃げられたことにようやく気付くのだった。


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シリーズ 日々掌編短編小説 538/1000

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