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ひとりひとりのものがたり

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仕事での出会い、出会ってしまった人たちの物語の断片を書き綴ったもの。高齢者のナラティブ。
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#エッセイ

世界地図が教えてくれたのは、旅をするのを決めるのは結局自分なんだということ

ちりゆくものは何も言わない。 ただ音もなく、主張もせず、ただただ静かに消えていくだけだ。 残されたものは悲嘆にくれる。 涙は乾くことなく、幾度となく頬を伝わる。 私の担当していた利用者さんが急に亡くなることは決してめずらしいことでもない。 私は訪問リハビリテーションを生業として、日々、さまざまなお宅へおじゃましている。 その方は高齢の女性で、夫と2人で景色のよい崖の上に住んでいた。崖からは湾を一望できる。ひとつひとつのおだやかな波が光に反射してきらめいていた。空気

「この家を守りたいんです。 夫がいたこの家に、私は住み続けたい」 そう言いながら彼女は一筋の涙を静かにこぼした。 私たちはさっきはじめて会ったばかりの人間だったが、私は彼女の涙が美しくて、その時はただ見惚れるばかりであった。 もうしばらくも前のことだ。 その日は仕事で、初めての訪問リハをご利用になる方のおうちにおじゃました。それが冒頭の彼女の家だ。 2階建ての一軒家。道は直角になっていて、その家と家の奥に車一台がやっとぎりぎり通れるくらいの幅のコンクリートの傾斜の入

愛しき世界とハンドベル

冷たい風は私のほほを冷やし 吐く息は白くあたたかく 後ろに置き去りになって消えていく。 朝の入谷は夜とは違って どこかかしこまったような 何かの始まりのような さわやかさも感じさせる。 歩行者をすりぬけて 最寄駅に着く。 鶯谷は猥雑な街だ。 駅前はどこもかしこも変な名前の ラブホテルがたくさん立ち並んでいる。 山手線で1番利用客が少ないことも 納得せざるを得ない。 このホテルの数だけ愛だの恋だの 人間の美しいものや汚いものや欲望が生まれているかと思うと、私は横を通るたびに気恥

己を忘れないこと

ある利用者さんのところに週1回訪問させてもらっている。 彼女は私が今、憧れていて尊敬している人の一人だ。 彼女自身は高齢になってあまり名前も聞いたことのないような難病になり、お子さんたちと同居しながら過ごしている。 彼女のものの受け止め方、しなやかさ、粘り強さ、ある種の潔さ、品の良さ、おだやかさは、私にとってはとても遠くて.....高い位置にある。それは富士山のように雲の上まで続いており、私にはまだまだ行き着かないところである。 「おたくはまだ若いからね。これからよ。」

だから嫌なんだ、春ってやつは

新しい職場に移ってから、明日でちょうど一年になる。 私はこの一年で、何人かの担当の方と今生のお別れをした。 ある人は、とても人ができたおばあちゃんで、いつでも会うとにこにことしていて、丁寧な物腰の方だった。私の住んでいる地元に長年住んでいて、家を建てた時は、今でこそ信じられないが、駅の周りに田んぼが広がっていたことを教えてくれた。 ある方は末期癌の方で、奄美がご出身のお母さんだった。訪問には彼女が亡くなるまでの3回しか行けなかったが、お元気な頃は料理が得意で、奄美のとび

咀嚼できない何かと人生会議

もごもご。 もごもご。 ・・・・・。 私は、今日もデイケアに来てくれた里子さん(仮名)の口元をじーっと見つめている。 口元の動きは止まってしまった。 目は開かれている。 でも、次第に瞼が落ちてくる。 「里子さん、里子さん、起きて下さい。」 「飲みましょうか。おいしいですよ。」 里子さんに私の声が届き、目が再び開かれた。 もごもご もごもご ・・・・・ 里子さんはパーキンソン病という病気になってもう7年くらいになる。 里子さんは食べたものや飲んだもの、自分の

喫茶ブラジルと青いノート

私は20cm程度の茶色の紙袋を持って、作業テーブルに向かった。 丸椅子に腰かけて、隣の車椅子に座っている相手と目くばせをする。 その相手の女性は、短い白髪で目が大きく、小柄な人だった。私の行動をやさしい小動物のようなまなざしでじっと見つめている。 私は紙袋からコーヒー豆を取り出し、手動のコーヒーミルの本体へそそぐ。辺りがコーヒー豆のいい匂いに包まれる。 カラカラっときれいな軽い音を立てて、豆は本体の底へおさまっていく。 「さ、やりますか」 と私は言った。女性は

それは深雪のようだった

左の肩から指先までは白い布で覆われていた。 私は患者さんの肩からゆっくりとその三角布を外す。 肩にゆっくりと触れる。 まだ少し痛みがあるようなので、遠位の関節から慎重に動かす。 彼女の肌はいつもひんやりと冷えていた。あたたかい私の手と重なる。 手関節から肘関節へ、各関節方向へ最終域感を感じながら、それはまるで大切な儀式のようにゆるやかにじっくりととり行われる。 肩関節に関しては、前かがみになってもらい、だらんと力を抜いて、重力に従う形で床面に向かって下ろしてもらう。

それぞれのエール

「そんなんじゃだめだぞ!もっと、シャキッとやらないとだめだろ!」大きな声がひびく。 一瞬あたりがシンと静まり返る。 声を出したのは90代の男性だ。 立ち上がって若者たちを見つめる。 見つめた先の若者たちは、高校の吹奏楽部の子たちだ。 私はドキドキしながら事の顛末を見守っていた。 *** 夏の始まりを感じる7月の上旬頃に、毎年私が勤めている施設のデイケアでは、七夕会と称してボランティアを呼んでいる。(※今年はコロナのため中止だった) 内容は曜日毎に変わり、日本舞

今日も私たちはトラペッタをさまよう

「そう!そこまっすぐ行って」 「ああ、その人に話しかけて下さい」 「その人じゃなくってですね。もう少し奥にいる人。」 私はなぜか、60代の男性と彼の部屋でドラゴンクエストⅧをやっていた。 はて。私は何をしているんだろう? 事の発端は、新規のデイケアの利用者さんの家に初めて行かせて頂いた時、同居している姉が担当利用者さんのゲーム機とゲームソフトを入院中に勝手に捨ててしまったことから話は始まっていた。 彼は退院して発覚した事実にたいそう怒っていた。 「何で捨てちゃっ

皇帝ダリアは咲いていたか

写真を撮られるのは昔から苦手だ。 昔といっても子どもの頃はおそらく気にしていなかった。 ちゃんと笑顔で写っているものが多い。 思春期くらいから苦手意識をもっていたと思う。自分の容姿に自信がないことと、容姿以外でも自信がないことから、なるべく写真に写らないようにしていたし、どうしても写る時は端っこでなるべく小さくなって(といっても体が大きいので小さくはなれないのだが)写っていた。ぎこちない作り笑顔で、写真の私はいつも猫背で頼りなさげだ。 そして運悪く、私の青春時代はプリク

迷惑をかけてほしかった娘さんの話

<2人のHさん> 数年前にHさんという80代の男性がデイケアに通われていて、私がリハビリの担当をしていた。 全く同じ名字のHさんも同じデイケアに通っていた。その方は私の担当ではなく、後輩の女の子が担当していた。 2人は家が隣同士で同じ曜日に通っていたが、全く違うタイプの人間だった。 同じ名字のHさんは油絵が趣味で、破天荒な芸術家タイプ。 人に合わせることはなく、行動も言動もマイペースだった。 デイケアの送迎で朝迎えに行くと、まだ肌着で過ごしていることがしょっちゅうで「行

あなたと行けなかった夜のドライブ

突然だが、私は夜のドライブが好きだ。 なるべく私は助手席に座っていたい。 疲れや眠気でぼんやりとしながら見る景色。 街のネオンが視界のはしから、にじみながらせまってくる。 道路照明灯や対向車線の車の光が横を走っていく。 昼とは違った静寂さ。 静かな車内。細かな車の振動。 都会の高速道路を走りたい。 ゆったりとまどろみながら、昼では話せないような親密な話をしたい。 心理的な距離を近づけていきたい。 あまり人には話したことがない趣味嗜好だ。 ここで話はさかの

彼女だけが見えていた風景

その瞳に何がうつっていたのか。 どんな景色が見えていたのか。 思い出しても、いまだに想像することができないものがある。 *** 昼下がりの午後 廊下にあたたかい陽ざしが差し込んでいた。 私はAさんと歩行練習をしていた。 Aさんは小柄で眼鏡をかけている。80代の女性だ。 転倒して骨折してしまい、手術をしたものの足の力が衰えてしまったので、施設の中は車椅子を使って移動している。 やさしい方であまり主張はしないが、読書をよくされていて、いろいろな事を教えて下さった。