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迷惑をかけてほしかった娘さんの話

<2人のHさん>

数年前にHさんという80代の男性がデイケアに通われていて、私がリハビリの担当をしていた。

全く同じ名字のHさんも同じデイケアに通っていた。その方は私の担当ではなく、後輩の女の子が担当していた。
2人は家が隣同士で同じ曜日に通っていたが、全く違うタイプの人間だった。

同じ名字のHさんは油絵が趣味で、破天荒な芸術家タイプ。
人に合わせることはなく、行動も言動もマイペースだった。
デイケアの送迎で朝迎えに行くと、まだ肌着で過ごしていることがしょっちゅうで「行きたくない」と駄々をこねることも多かった。
リハビリで「平行棒を歩きましょう」と促すと「どうやって歩くかい?逆立ちでもして歩こうか」と大体お決まりのフレーズが聞かれ、気分が乗らないとやらないことも多かった。
ケアスタッフは時間に追われていることもあるため、時間通りに事が進まないHさんを良く思っていない職員もいたが、私は何が出てくるかわからないおもちゃ箱みたいなHさんが嫌いではなく、むしろ積極的に用事がなくても話しかけた。


一方、私が担当していたHさんは非常におだやかで、凪のように静かな方だった。
背が高く、背すじもぴしっと伸びており、スタイルが良かった。会話も自ら主張はしないが、話しかけられると笑顔を見せ、あたたかいことばを返してくれた。介護職員にもファンが多く、一人の職員は「大好き」といって腕を組んで歩いている姿をよく見かけた。Hさん少し困り笑顔ではあったが、断るようなことはせずその職員を受け入れ、気のすむままにしていた。身体機能も自立しており、介助する場面もない。介護保険の認定がついたのが不思議だと職員みんなで噂することもあった。受診するために自動車も運転していることをこっそり本人から教えてもらったこともある。

子どももそうだが、手のかかる子ほど印象に残る。学校の先生はそのように話す方が少なくはない。

この2人のHさんも同じ名字のせいか、何かと互いに比較されることが多かった。

手のかかるHさんと手のかからないHさんは、どうしても手のかかるHさんの方が必然的に職員も関わることが多く、かからないHさんの人気はあったものの、存在は薄かったように思う。


そんなおだやかなHさんはある日突然、亡くなってしまった。

亡くなるような兆しは全くなく、前日まで普通に過ごし、朝方起きてこないHさんをご家族が見つけたとの事だった。

亡くなり方も凪のようだなと私は思った。


私たちの施設は、利用していた方が亡くなった場合は、可能であればデイケアの介護主任とリハビリの担当職員等が通夜式にお花を届けるか、ご自宅へご挨拶に行かせてもらうのが当時の流れであった。

Hさんの場合は通夜が済んでいたので、ご自宅へ伺わせてもらった。

出迎えて下さったのは同居していた娘さんご夫婦であった。

デイケアでのHさんの人柄やエピソード、そして大変人気があり、職員の中でファンもいたことを介護主任が話した。

介護主任の話を聞き、娘さんは大変喜ばれていたし、納得していた。「父はおだやかな人だったんです。」とHさんの生前の様子を教えて下さった。デイケアでの人柄と変わらぬ穏やかな家庭での様子や、若い頃の苦労話を聞かせて下さった。

そして突然娘さんは涙を流し始めた。

「本当に父は手がかからない人でした。あまりにもできすぎた人です。こんなことを言っていいのかわからないけど、欲を言えば、もっと迷惑をかけてほしかった。娘としてはさみしい。父に何もできなかったし、もっと何かをしてあげたかった。こんなに急にいなくなるなんて。」


<お別れの仕方>

悲嘆:かなしみなげくこと。「友の急逝を―する」(goo辞書より)

グリーフケア(ぐりーふけあ、grief care):身近な人との死別を経験し、悲嘆に暮れる人を、悲しみから立ち直れるように支援することである。(看護roo用語辞典より)

Hさんの娘さんの話は、重度の障害者を日々体力を消耗しながらみている方にとっては「何を言ってるんだ」「そんなポックリ逝かれるなんて幸せじゃないか」「迷惑をかけないなんて贅沢な話だ」「私たちと同じ苦労をしてみなさいよ」と言われそうな話であると思う。

でも娘さんが思ったこともまた1つの事実であるし、1人の人間の思いである。

1人の人間の悲嘆である。そこは誰にも否定することはできない。

死別とは喪失の1つである。

喪失の向き合い方は人によって違う。

急死した方のまわりの人々は突然訪れる喪失体験に対しておどろいてしまう。後悔が残る。

がんの終末期の患者さんや難病患者さんのように、少しずつ衰えていく姿をみている近しい人は、もしかして少しずつ喪失を体験しているのかなと思う。

食べられなくなること。トイレに行けなくなること。自分の意思を伝えられなくなること。入院することから始まっているかもしれない。

その人がいなくなる。距離が離れていく。

喪失の心の準備がゆっくりとできていく。

それは家族だけではなく、本人もだ。

そう考えるとゆっくりと死に向かっていくことは、悪いことばかりではないかもしれない。

どのような形の喪失がフィットするのかは本当に千差万別だと思うし、どのような着地になっても後悔は残ると思う。


そして、グリーフケアに関しては専門家が入った方がいいと個人的には感じている。

なぜなら人の悲しみに向き合う事は並大抵の力や知識ではできないからだ。

でも、関わるのは専門家だけではない方がいいとも思う。

それは、専門家が関わる前からその人が亡くなる前から喪失は始まっているからだ。

できたら、その物語をいつも近くで見て支えていた人たちが、いつもと変わらずその場にいることが非常に大事なのではないかなと思う。


Hさんの娘さんは、おだやかな凪の海で大きな波を待っていたのかもしれない。

乗り越えることもないまま、海辺にたどりついてしまった彼女は、もう海に戻ることができない悲しみを抱えているのだ。




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