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彼女だけが見えていた風景
その瞳に何がうつっていたのか。
どんな景色が見えていたのか。
思い出しても、いまだに想像することができないものがある。
***
昼下がりの午後
廊下にあたたかい陽ざしが差し込んでいた。
私はAさんと歩行練習をしていた。
Aさんは小柄で眼鏡をかけている。80代の女性だ。
転倒して骨折してしまい、手術をしたものの足の力が衰えてしまったので、施設の中は車椅子を使って移動している。
やさしい方であまり主張はしないが、読書をよくされていて、いろいろな事を教えて下さった。
当時、新卒だった私は、仕事に慣れるのが精一杯で、くせのある利用者さんなどに翻弄されることも多く、戸惑いも多かったが、穏やかなAさんとリハビリするのは楽しみであった。
Aさんは平行棒で歩行練習をしたあと、杖で施設の玄関まで歩く。
その後、玄関の椅子で休憩した後に、リハビリ室に戻るというプログラムが組まれていた。
私は決められたプログラムをいつものように行い、杖で歩くAさんと玄関まで向かい、椅子に座って休憩をとった。
少し心臓が悪いAさんは、歩くと脈拍が上昇する為、休憩を取るためにわざと話しかけて、時間を自然と長く取るように意識していた。
いつものように話していた時だ。
突然彼女は黙ってしまった。
私はどうしたのか心配していた。
「どうしたんですか?」
少し間を置いて視線は前方に向けられたまま
「わたし、こわいのよ。」
とだけ話した。
「何がこわいんですか?」と聞く。すると、
「たぶん私は頭がおかしくなってしまう。そんな気がするの。」
と力なくつぶやいた。
視線が私の方へ向けられた。
瞳が私に何かを訴えかけていた。
今だったらもっと別の言葉をかけていただろう。
もう少し話を聞いていたと思う。
でも当時の私は、経験が足りなかったし、真剣な彼女にどう返していいかわからなかったし、何より、何だか言われた自分の身の置き所がなかった。
「そんなことないですよ。大丈夫ですよ。」と安心させるような声掛けをしたと思う。
安心したかったのは私だったのかもしれない。
するとしばらく見つめて、Aさんは微笑んだ。
その後はまた、杖歩行練習を続けて、いつものように居室に戻っていった。
しばらくしてAさんは自分の言葉を証明するかのように本当に認知症が進んでしまった。
言葉が少なくなってしまっても、彼女はあの日、私に向けた笑顔と同じ笑顔を絶やさずに過ごしていた。
そしてある日施設でおだやかに亡くなってしまった。
***
私は維持期・生活期で十何年とリハビリを続けている。
今まで自分が認知症になることを予測して声に出した人は
彼女1人だけだ。
あの時、彼女にはどのような景色が見えていたのだろうか。
どんな気持ちで私に話したのか。
瞳は何をうつしていたのか。
私は何もわからない。
ふと同じ季節になると、玄関に座って、あの時の事を思い出している。
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