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咀嚼できない何かと人生会議

もごもご。

もごもご。

・・・・・。


私は、今日もデイケアに来てくれた里子さん(仮名)の口元をじーっと見つめている。


口元の動きは止まってしまった。
目は開かれている。
でも、次第に瞼が落ちてくる。

「里子さん、里子さん、起きて下さい。」
「飲みましょうか。おいしいですよ。」

里子さんに私の声が届き、目が再び開かれた。

もごもご

もごもご

・・・・・

里子さんはパーキンソン病という病気になってもう7年くらいになる。
里子さんは食べたものや飲んだもの、自分の唾液が最近飲み込めなくなってきた。

こうしてもごもごと口を動かし、動きはスッと音もなく自然と止まる。

最初から何もなかったかのように。

でも口の中のお茶は消えていない。膨らんだ頬がそれを物語っている。


私は里子さんのかわいい赤い縁の眼鏡や、白髪の少ないショートカットのカタチの良い頭部、まるで赤ちゃんのように小さい親指を見つめる。

デイケアルームの音が聞こえる。誰かの笑い声。コップを洗う音。トイレのナースコール。髪を乾かすドライヤーのうなる音。

もごもご

もごもご

ゴクッ。


あ、飲んだ。

***


咀嚼について考える。

咀嚼は栄養を取るために必要な動きだ。

咀嚼ができなくなるということはそういうことなのか。

栄養を取れなくなる。このような動き。自然なことなのか。

少しずつ人間は死に向かっている。

みんな生まれた時から落っこちてる。

死に向かっていくことは抗えない。みんな死にひきよせられるように落下しているのだ。


物事というのも時と場合によっては飲み込みたくない時がある。
生きていると現実が映画やドラマを超える時がある。誰だって歓迎したくないそれは不意にあらわれる。
「なんで私が」「何も悪いことをしていないのに」「どうしてこうなるんだ!」
そんなことは飲み込みたくない。

自分の物にしたくない。咀嚼したくない。
口を動かして分解して、カタチを変えて・・・そのような事もしたくない。

逃げたい。今までそれがなかった昔に戻りたい。

だから止まる。咀嚼しない。ただ自分を止めてひたすら耐える。
誰も私に関わらないで・・。

今、飲み込むと自分が変わってしまう。

きっとのどにも引っかかってしまう。自分の本来おさまるところへは入らないから、今はそれをなかったことにしたい。動かなければ傷つかない。

咀嚼できない何かがある。

咀嚼できなくても、動かなくても、落ちてることには変わりはない。


***

里子さんはトロミのついたお茶を飲み込むことができた。

喉ぼとけが上下して音が鳴った。

「里子さん、体を動かしますよ」

私は作業療法士だ。里子さんと長く付き合ってきた。
だから、見えることがある。
里子さんはだんだんお話ができなくなってきたこと。
筋肉が固くなって関節が変形してきていること。
日中起きている時間が少なくなっていること。
歩くのがやっとで、自宅の玄関を乗り越えるのが難しくなってきていること。

そして食べ物が上手く食べられなくなってきていること。

ストレッチをしながら、私はいつも語り掛ける。

「今日は天気がいいけど、ちょっと風が冷たいんですよ。」
「里子さんの手も冷たいですね。心があたたかいのかな。」

里子さんは最近私が話しかけても反応が少ない。でも、前と変わらず私は話しかけたい。

季節柄、花粉症の話をした。そこからアレルギーの話に話題を変えた。
「里子さんはアレルギーはお持ちですか?」

反応はない。でも視線は私を捉えている。確信があった。里子さんは聞いてくれている。

「あ、里子さんはあれですよね。お父さんアレルギーですよね。」

「ふふっ」

里子さんが笑った。彼女が笑うのは本当に久しぶりだ。

彼女の笑い顔は、ほころんだ桜のように儚げで一瞬だった。


里子さんが言わなくても、私と里子さんが歩んできた道がある。
私は歩んできた道のりの中で里子さんの断片をつかんできた。


里子さんは旦那さんにとても愛されていること。
2人の娘さんにも大事にされていること。
昔お茶を習っていたこと。
近所にお茶の先生が住んでいて、本当は会いに行きたかったこと。
外出してカフェに行きたかったこと。
若いころ、栄養士として働いていたこと。
車の免許を持っていて、役所に勤めていた旦那さんの送り迎えをずっと続けていたこと。
切り絵が好きで玄関に大きい花の作品が飾ってあること。
本当は冗談が好きなこと。

「旦那さん」里子さんが言うところの「お父さん」の愛情が行き過ぎた行動をとる時に、あえて冷たい対応をしてみんなの笑いを取っていること。

そうやってなごませてくれること。

知っているから私はこうやって話ができる。

彼女からの反応がなくても、わかる。


今、里子さんの飲み込みが悪いのは病気の進行によるものである。

でもそれだけじゃなくて、里子さんはこの状況を今を咀嚼したくないのかなとも思う。

自分の体が変わって死に向かっていくことを飲み込みたくないのかなと感じる。

山の峠の向こう側には行きたくない。息切れして休みたくなる。


時間を止められればいいなと誰もが思ったことがあるだろう。私もある。

家族や好きな人といつまでも変わらず暮らしていきたい。

でも、落下は止められない。

時は止まらない。

山ものぼり続けなければならない。向こう側に渡るために。


私は里子さんのこれからを一緒に考えなければならない。
時間は思ったより長くないようだ。悠長にはしていられない。

玄関を超えられなくなったらどうするか?
完全に飲み込みができなくなった時にどうするか?
誤嚥が続いて肺炎になって呼吸が難しくなった時はどうするか?
どの状態まで自宅で過ごせるか?

たくさんのどうするかがある。

人生会議というけれど、やっぱり名前が大げさだな。

普段着のように話したいけど切り出せないんだな。
だって自分や家族の「死」はみんな飲み込みたくないよね。
時間を止めて咀嚼もしない。

私もこのまま里子さんと過ごしていきたい。

でも、いつかは受け入れなければならない。

落下は生まれた時から始まっているのだから。

峠への険しい道も続いているのだから。

咀嚼できない何かを一緒にかみ砕くこと、カタチの良い物へ変換すること。

医療者は何ができるだろう。

私は表現できない里子さんのかわりに、里子さんの大切にしたい何かを一緒に考えたり伝えることができるかな。

里子さんの家族やケアマネージャーと近いうちに話をしなければならない。

里子さんの車椅子を押しながら、私は黒いハンドグリップをいつもより強く握っていた。






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