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8.拝啓 〜三十の私へ〜

私の母は私と30違いで昨年の3月で小学校教諭生活を終えた。定年より1年早く辞めたのは、双極性障害の私の住む大阪へいつでもヘルプに駆け付けられるように。

3月といえば6年生を送る会などがあるが、先生達からはお昼の音楽の放送で6年生へ向けて選んだ曲を流すという、これまた難しいリクエストをせねばならない学校であった。
さすがに私が母の誕生日プレゼントにと送ったパンクロックの青臭い歌詞を餞にするには相手が幼過ぎる。

母はマーチングバンドの指導もしていた。
ピアノを弾く機会があれば自動的に母が任命されていた。
退任式では毎回ピアノの弾き語り(という名の絶唱)をしてきた猛者でもある。
ならばと勧めたのはアンジェラ・アキの「手紙〜拝啓 十五の君へ〜」だった。
髪を振り乱し、椅子から立ち上がりながらピアノを弾いて歌い上げるアンジェ・アキは少し母に通じるものがある。

母が受け持っていたのは5年生だった。
私から見ても母はとても厳しく、自分を律しなさい、意欲を持ちなさい、自分だけの興味を見つけなさいという指導をする人だった(と思う。)

学力に伸び悩む田舎の少人数クラス。
復習プリントや授業でもお互いが机を班にしてくっつけ、また頭をくっつけてシートを覗き込みあーでもないこーでもないと生徒が考え行き詰まった時にヒントを出して、自分たちで答えを導き出せる、その方法と爽快感・達成感を伝えて根付かせてきたのが母だった。

いつも母は「褒めるのが苦手でいつも生徒に嫌われるんよ〜」と言っていたが、地元のスーパーでうっかり保護者と生徒と遭遇すると「先生のおかげで怒らなくても宿題自分でするようになったんですよ」だとか、前の前にいた時の学校の保護者や生徒でも声をかけられており、ロックダウンを焦って仕切りにロックオンと連呼する私の知る天然な母はそこにはいなかった。

母の授業にはよく我々実子の話が出る。
おかげで中学の同級生の半分は母の教え子だった為、私のことをよく知っていた。
そんなことまでネタにしてたの!?というくらい、思春期の私は恥ずかしかったが、「あの先生の娘だけある、さすがじゃわ」と言われる為に必死にテスト勉強をした。
一応学年5〜3位以内には常にいたように思う。

そんな母が定年より1年早く退任することを伏せて、6年生へ贈る曲として流した「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」だが、母の受け持つ5年生の女の子が数人ランチルームにいるにも関わらず泣いてしまったらしい。

私はそれを聞いて、胸がギュッとなった。
今を辛いと、孤独だと思春期を耐えている子が確かにいるのだと。
そしてその子は成績優秀で「まだまだなんです、まだ足りないんです」と向上心溢れ、自主学習もしっかりする子であった。

幼い時の自分になんとなく重なった。
まだ足りない、100点の並ぶテストなんて当たり前なんだ、学年の学力テストでどれ程県平均より、全国平均より高い得点が取れるか。
自分で自分にプレッシャーをかけて理想の自分を追う、その気持ちが痛いほどわかった。

十五の君へなら私は丁度倍の三十だ。
十五の私へ宛てて手紙を書くとしたら何を書くだろうか。
大学生の時からヒールは履けなくなるから喧嘩してでもヒールは履けと言うだろうか。
病院たらい回しにされる前に真っ先にここへ行けと忠告するだろうか。

でも今を変えるための言葉はおそらく紡がないだろう。
貴女が今感じてる苦しさも悔しさも孤独も、大人になっても全然変わらないけど、それらも飼い慣らしてなんとなく生きていけるようになるよ、死ぬほど泣いて、本当に死にたい日は山ほど来るけど無事に生きて三十を迎えられるよ、と。

十五の私は逆に絶望するだろうか、変わらずこのまま苦しいのかと悔しいのかと死にそうなのかと。

でもきっと大丈夫だ。
おもわずランチルームで泣いてしまった女の子の将来の夢は、学校の先生。
「私の尊敬する人は担任の〇〇(オカン)先生です!私も先生のような厳しくても優しい先生になりたいです!」
最後の道徳の授業で私の話をしたらしい母。

心の病気で実家に戻ってきた娘が、「母さんの幸せが私の幸せなんだよ」って言うのだと。
母としては娘の幸せが母の幸せだったけど、思い合うってこう言うことなんだなってちゃんと先生も実感しました、と。

厳しくて鬼先生のような扱いも受け、圧力のかかる中管理職への試験は形だけ受けてずっと主任まで止まりで現場で子供達一人一人と向き合ってきた母。

小さい時は、「なんで他の家の子にばっかりで私たちには優しくしてくれないのだろう。」と寂しく思ったこともある。
それでも27歳で半年以上帰省していた中で、母と娘の呪縛は50回くらい肩結びになってたのがやっと解けたし、母が私に思っていることも、私が母に思っていることも伝えられた。
それはもはや、母と母方祖母への懺悔のようでもあったけど、家族であっても深度の深い話し合いが時には必要なのだと思った。

定年まで働いていたら27日が最終出勤日だっただろう母。

あとひと月もすれば61だね。

私は15の倍、母は30の倍。
人生は決して平坦ではないけど、時々そのどん底に死にたくなって、躁で散財しては怒られて、イライラしては当たって、鬱が酷ければ夜中に泣きながら電話して。
いつまでも手のかかる娘ですが、ちゃんと仕事もお見合いも頑張って、女紋の黒留袖着せてあげるからね。

私が60の自分に当てて書く手紙はどんなものになるだろう。
60歳、生きているのかすらもはや謎でもあるけど、この曲を聴くたびに、泣いてしまった女の子の感受性と今後の可能性に私が泣きそうになってしまうのであった。

ちなみに私は、足立梨花、黒木華に似てると言われます。

 

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