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「好き」の質感が広辞苑と違う



わたしのす
きはおはようと
おなじなの
シツリョウおもく
うけとめないで



質感が違う、と表現してしまうと、「直訳的に触り心地の問題」みたいになって、辞書の紙みたくツルツルしてないのかね?などと思われちゃいそうだが、そうではなく、大幅な一般論と違う、と言う感じなのである。



私の「すき」は軽量だ。
軽量だけど、その中に基本、嘘は一つもない。

つまり、なんとも思ってないのにとりあえず「かわいい~」とか「わかる〜」と言うような感じで「すき~」と使うわけではない。



問題は、かなり普遍的な意味で使用してしまう、と言うことだ。



私の「好き」は、対象によって、一般的な温度差はあるが嘘はない。

例えば、アーティストAとBがいて、どちらも好きであるが、Aに対しての方がその思いがより深い、と言うことはある。
「友人」達が全員が、同じ距離感で好きなわけでもない。(この場合は、相手のあることだからということでもあるが。)

しかしそのニュアンスというか、使用の感覚としては基本、「おはよう」や「ありがとう」とあまり大差がない。



元々、様々な事柄に対してすぐに「いいな」と思うたちなので、誰に対しても、何に対しても、割合すぐに「すき」とか「すてき」と口に出す。

それが、人に対しての場合の「すき」は、挨拶のフラットさに、「あこがれる」や「すごい」と言う意味を多分に含む場合が多い。それは、常に瞬間に感じるナマモノなので、感じた瞬間、わりあい自然と口から出る(口に出した方が人間関係が上手にいくと思っている少しの本能的打算も認める)。しかし、なので、質感的には本当に軽い。「スーパーボールくらいに素早く跳ねる風船」と、喩えは悪いが思っていただきたい。

つまりその軽さは、挨拶や感謝の言葉と同じように、「適当」という意味でなく「フラットな、風通しのいい」質感・質量なのである。
日常で「すき」を感知しているのは、「五歳児」の私なのだ。


そしてそれら「好き」に関しての返答は基本不要。私が言いたくて言ってるだけだから。



もちろん、そう言って、嬉しい顔を相手がしてくれたら私も嬉しい。「ありがとう」など言ってもらえればなお嬉しい。
しかし、「あっそ」という感じで流されても全然いい。むしろ親しい友人は私の日々の愛溢れる「好き」を大体半分くらいは、あしらい流している。私は、よく知っている、仲がいいゆえの、その温度感と風通しが心地よくて好きだ。

多分その言葉は、私の中での「幸せ募金」的な感覚も少しはあり、つまりは募金に時として道徳的優越感を得ることはあっても見返りは求めないだろう。人より多分、博愛精神が強いから、日常生活で溢れる後腐れないフラットな愛を誰かに貢ぎたいだけ。さらに言えば人を嬉しい気持ちにできた、そんな自分が勝手に少し嬉しいだけ。恩着せがましくてはいけない。そう言う感じ。


だから時たま、男女問わず、急に勝手に期待をかけてきては、返信封筒付きの「重い好き」を投げてくる人(そして大体期待通りの返信でないと態度が微妙に変わる人)には、私の、この言葉の出典が広辞苑でないがゆえであるが、言い方や雰囲気や文脈のニュアンスで察してくれとも思っている。





「すき」は、いわば、「嬉しい気持ちにさせてくれてありがとう」「共感します/してくれてありがとう」と言う感覚全体を表現する際の、わたしの中で最も端的かつ的確な日常的表現方法なのである。






(「好き」の出典が同じ辞書を保有する友人と話したことをきっかけに。ふとした書き留め。)

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