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人生の根っこに神さまの眼差しを
神は言われた。
「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
旧約聖書 創世記1章20-22節 (新共同訳)
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
子どもの頃、ふと気付いたことがあります。「『お母さん』たちって、ロングヘアの人が少ないなぁ。パーマをかけてる人が多いなぁ」と。
私の子ども時代なんて20世紀末のことですので(こんな言い方するとすごい大昔みたいでかっこいいな)、今はまた少し様子が違うのかもしれませんが、今自分がいわゆる「お母さん」の世代になってみて、「確かにロングヘアってしにくいんだよな~、髪うねるし」と思います。
私はもともと割と直毛で、パーマもかかりにくい性質だったんですが、最近やたらと髪がうねります。特に毛先がぴょこんぴょこん丸まってハネるんです。
10年来お世話になっている美容師さんに、「なんでこんなに毛先がハネるんですかねぇ?」と尋ねると、「生え癖ですね~」と言われました。
え、生え癖? 毛先なのに? と思ったんですが、「加齢で肌のハリが無くなったりするように、頭皮も肌の一部なので緩んでくるんですよ。そうすると毛穴の形が歪んで、髪に癖が出るようになるんです」と説明されて、「ははぁ、なるほど~!」と感心してしまいました。
もちろん、ハネたりうねったりすることにもいろんな要因はあるでしょうから、必ずしも中年以降はみんなこうなるわけではないだろうし、みんな同じ原因だとは限りませんが、こと私に関して言えば、この説明にものすごく合点がいったのでした。確かに額の生え際とかに、短い割に今までに無かったようなうねうねした毛を見付けたりすることが増えたんですよね。毛先を一生懸命伸ばすようにしてブローしてもあまり効果が無かったのは、ブローが下手なわけじゃなくて(いや、それも大いにあるんだけど)、もともとの生え癖だったからなのね。なるほど~。
先の方でいくら矯正しようとしても、根っこが歪んでしまっていたらなかなか変えられない。こういうことって他にもいっぱいあるんだろうな。
「体が資本」なんて言葉もうんざりするほど何回も聞いてきたけれど、40代に差し掛かる辺りからものすごく実感するようになりました。これもある種の「根っこ」、生きることの土台としての「身体」という気がする。体が元気じゃないと、いろんなことがうまくやれない。「病は気から」と言うけれど、やっぱり体がしんどいと心も晴れないし。
後天的な働きかけや、大人になってからの出会いや訓練で変われる部分ももちろんあります。私自身、そうやっていろいろと変わってきた部分もあります。
でも「根っこが大事」「土台が肝心」というところも、改めて私たちに示唆を与えてくれる考え方だなぁと再認識したのでした。
私は私立中高で働いていますが、そういう意味では私は、生徒さんたちの「人生の土台」の頃に立ち会わせてもらっていると言えます。これってすごく責任が大きいことだなぁ……と、身の引き締まる思いがします。
たとえば人生のこの時代に「成果主義」とか「自己責任」みたいなことをものすごく刷り込まれてしまったら、やっぱり結果ありきのものの見方を深く内面化して生きていくことになるだろうし、弱い立場にある人のことをどこか「自分が悪い」と切り捨てるようなものの見方をしてしまうかもしれないし、自分が困った時にも「自分が悪い」と思って助けを求めにくくなったりするだろうと思います。
一方で学校という所は「成績評価」という「結果」にこだわらなければならない部分も大きくあって、教員として、生徒さんたちの人生の「根っこ」をどうやって育んでいくべきなのか、葛藤を感じます。
そんなことを考えていたところへ、私が中高時代に慣れ親しんでいた讃美歌を思い出す機会が与えられました。
『讃美歌 第二編』(日本キリスト教団出版局)の144番「すみわたる大空に」という曲です。
すみわたる大空に 星かげはひかり
風そよぐ野に山に 草花はかおる
数しれぬ空の星 神さまはみなかぞえ
ひとつずつ目をとめて まもられる いつも
(『讃美歌第二編』144 佐竹明訳)
何気なく歌い、何気なく聴き続けてきた讃美歌ではありましたが、「ああ、私はあの頃こういう言葉を”浴びながら”育まれていたのだなぁ」と思いました。
「数しれぬ空の星 神さまはみなかぞえ ひとつずつ目をとめて まもられる いつも」。
こういうことを聴きながら育てば、先に述べたような「成果主義」的な世の物差しからどこかで守られるのではないか。そんな気がしました。
冒頭に挙げたのは、この讃美歌の歌詞と繋がる創世記の言葉です。
広い世界にたくさんの人がいて、その中で私なんて本当にちっぽけで取るに足らない存在だと思って悲しくなる時。そんな時にこそ、「ひとつずつ目をとめて まもられる」神さまのことを思い出せるような、「人生の土台作り」のお手伝いをするのが、私の仕事かなぁと思うのでした。
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