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思い悩まず、小さな幸せを重ねていけばいい。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
新約聖書 マタイによる福音書 6章33-34節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

10月が終わろうとしています。
この10月は個人的に、10年分くらいの出来事が一斉に大波となって襲ってきたような、まさに「怒濤」の日々でした。

いろいろあって、月初めに行くはずだった美容院の予約をキャンセルして先延ばしにしていたのですが、月末になってようやく行くことができました。

軽くなった頭で歩く帰り道、「そういえば、『3日幸せになりたかったら髪を切れ』みたいな言葉があった気がするな」と思い出しました。
何気ない気持ちでぽちぽち検索してみると、思ったよりいろいろ出てきました。飽くまで徒然なるままにスマホでネット検索した結果ですので、真偽の程は定かではありませんが、軽い気持ちで受け流してくださいね。

イギリスでは、
「1日幸せでいたければ床屋に行きなさい。
1週間幸せでいたければ車を買いなさい。
1ヶ月幸せでいたければ結婚しなさい。
1年幸せでいたければ家を買いなさい。
一生幸せでいたければ正直でいなさい」。

中国では、
「1日幸せになりたければ酒を飲みなさい。
3日幸せになりたければ結婚しなさい。
7日幸せになりたければ豚を殺して食べなさい。
一生幸せになりたければ釣りを覚えなさい」。

フランスでは、
「1日幸せでいたければ美味しいものを食べなさい」。

軽く検索しただけでもいろんなバリエーションがありそうでした。口伝で何となく伝わっているものって、きっといろいろ変化するんでしょうね。
ともあれ、髪を切るとその日一日気分がすっきりするというのは、みんな感じることなのかも。

髪型を変える。酒を飲む。美味しいものを食べる。新しい車を買う。新しいパートナーと結ばれる。新しい家に住む。
何かしら「新しいもの」を取り入れることは、やはり心身共に「リフレッシュ」されることに繋がるのだと思います。

ただ、「新しさ」は時間が経つと「新しさ」を喪います。(そりゃそうだ)
だからこそ、これらの格言のオチ(?)は「一生続く幸せは、新しいものを『取り入れる』ことではなく、自らの中から日々新たな何かを『見出していく』ということなんだよ」と語っているんですね。

「新しいものを取り入れる」ということには、限界があります。
「車を買う」「結婚する」「家を買う」なんて簡単にできないし、そんなに何度もできるものでもないですからね。大金を要したり、相手のあることだったりしますから、なかなか思い通りにはなりません。

そう考えるとこの記事では、「牧師くどちん」が、「ですから皆さん、一生幸せでいたければ、聖書を読みましょう! 信仰を持ちましょう!」……と宣べ伝えるのが良いような気がします。
もちろん、そういう思いもあります。確かに私は信仰によって、苦難の時に拠り所となる神を知り、平安の時に感謝を伝えるべき神と出会ったからです。

でも、「信仰を持ちましょう!」と言われて「そっか~、聖書を読めば、信仰を持てば、幸せになれるんだ! じゃあキリスト教信じよーっと!」と、簡単に受け入れてもらえるものでもないし、そんな安易なものでもないよな、と分かってもいます。

冒頭に挙げたのは、有名な「思い悩むな」という聖句です。
「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」という言葉から、「生活レベルの些細なことに煩わされてはいけない」「そうではなく、何よりも神の国を求めなさい」という「締めの教訓」が与えられる。そんな聖句……なのだと思います。

でも今回自分自身いろいろと大変なことがある中で、「イエスさまはもっと『気楽でいいよ』って仰っているのかもしれないな」なんて思いました。
「いや、それはお前の甘えた解釈だ」と言われたら、「アーメン!(その通り)」と答えるけど(笑)

「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな」というのは、「飲食のようなくだらないことで悩むな」ということではなく、「飲食くらい、思い悩まず好きにしたらいいのよ」という寛容として読むこともできないでしょうか。
そんな小さな小さな、長続きはしないかもしれない「幸せ」を拾い集める中で、ちょっとだけほっとしたり、嬉しくなったりする。そんな日々の積み重ねが私たちの心を広くしてくれたり、平安にしてくれたりして、そこから「神の国」に繋がる隣人愛も生まれてくる。
そんな気がしました。

がっつりじっくり自分の大きな課題に立ち向かって、聖書を真剣に読んで、自らの信仰を深く問う、そんな時も人生のどこかで訪れるでしょう。
でもそういうことがしんどく感じられる時には、思い悩むことなく、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、着たいものを着る。空の鳥や野の花のように、「そのまんま」の姿で風に吹かれることにささやかな喜びを見出す。
そうしてちょっとほっとした心持ちで、「そういえばあの人は元気かな」と誰かに心を寄せるゆとりを取り戻す。
そんな所から始まる「神の国」も、あるんじゃないかな、と思いました。


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