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欲しがり過ぎず、分かち合う

「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。
「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。
旧約聖書 出エジプト記 16章12-21節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

ロシアの文豪トルストイの作品に、『人にはどれほどの土地がいるか』という短編があります。

絵本にもなっているくらい、短くて、しかも分かりやすい寓話です。

農民パホームは、「土地があれば幸せになれる」と躍起になって土地を手に入れ、やがて大地主になるのですが、欲を出してさらなる土地を手に入れようと画策した結果、命を落としてしまう。そしてたった6フィート(日本語訳では六尺)の土地に埋められました。『人にはどれほどの土地がいるか』、答えは「6フィート、六尺」だった……というお話です。

ではこのタイトルをもじって、「人にはどれほどのパンがいるか」と考えてみたらどうなるか。「一日当たり一オメル」と答えているのが、冒頭に引用した聖書箇所です。

エジプトの国で苦しい奴隷生活を強いられていたイスラエルの人々は、モーセというリーダーの導きによってエジプトを脱出します。しかし解放を喜んだのもつかの間、新たに住まうべき「約束の地」への旅路は厳しく、イスラエルの人々は不平不満を漏らし始めます。
喉が渇いた~、腹が減った~、肉が食いたい~、こんなことならエジプトにいた方がましだった~ (´Д`)=3
神さまは、そんなイスラエルの不満を聞き入れられ、彼らに肉とパンを与えます。すなわち、夕方になるとうずらが大量に宿営地の周りに飛んできて、これを捕らえて食べることができるようになりました。また、朝になると宿営の周りに露が降り、これが蒸発すると、薄くて甘いウエハースのようなものが残る。これは「マナ」と呼ばれ、これが彼らの食物、彼らのパンとなりました。

ちなみに、森永の「マンナ」シリーズは聖書のここから名前が取られているそうですよ(・ω・)

神さまはこのマナをお与えになり、こう言われます。「それぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。だれもそれを翌朝まで残しておいてはならない」。
不思議なことに、イスラエルの人々がこのマナを集めてみると、多く集めても少なく集めても、升で計ってみたら一オメルずつになっていたというのですが、それでも中には言いつけに背いて、一部を翌朝まで取っておいた者がいました。するとその取っておいたマナは虫がついて臭くなったというのです。それで、モーセに怒られるのでした。

今日必要なパン(マナ)は、どれほどか。一オメルなんです。それ以上でもそれ以下でもない。そしてその必要な分は満たされている。でも人は「必要以上」に「取っておこう」とする。今日必要な分はあるのに、明日もそれがちゃんと満たされるのに、それでも「余分に取っておこう」と思ってしまう。

先日、こちらの記事を読みました。

この記事の中で、僧侶の南直哉さんは「所有物は、必要物ではない。必要物なら、すでに使っているか、すぐに使い切って、所有する余地が無い。いわゆる「剰余物」しか所有の対象にはならない」と仰っています。
つまり、この「必要以上」に「取っておくもの」が「所有」なんですね。イスラエルの一部の人々は、この「所有」に囚われて、神さまの言いつけにさえ背いてしまったのだと言えます。

「所有」へと人を駆り立てるものは、恐らく不安と不信です。
自分で所有していないと、不足の折に誰からも助けてもらえないのではないか。周囲の人々は私の所有の少なさを見下しているのではないか。持たざる状況になった時、神さまは私を救ってはくださらないのではないか。
根底にそのような不安が渦巻くからこそ、パホームは命を削ってまで土地を得ようとしたし、イスラエルの人々はマナを次の日まで持ち越したのでしょう。
そして、それらはたぶん私たち多くの者の姿とも重なるのだろうと思います。

何を隠そう私自身も、モノを買うのが大好きです。大しておしゃれでもないのに、毎シーズン「服が無い」と言っては新しい服を買い足す。かといって、昨シーズンの服が着られなくなったわけではないので、そのまま溜め込み、洋服ダンスも押し入れの衣装ケースもパンパンで、結局どんな服を持っているのか把握しきれず、また「着るものが無い」とぼやく。
「何を着ようかと思い悩むな」。いやいやいや、まあそれはそれということで……とごまかして、モノを買い続ける、溜め込み続ける生活。
私だけではなく、仮にそれが衣服では無かったとしても、同じような経験のある人、今まさにそのような状況にある人も、いらっしゃるのではないでしょうか。

でもね、必要以上の大量消費の背後で、大きな環境負荷、資源の問題、途上国の人たちへの搾取なんかが起こっていることも、知ってはいるわけです。

キリスト教は「罪の自覚」を促す宗教ですが、「罪」ってそんな難解なものではなくて、こういう日常の具体的なところにどっかりと食い込んでいるものなのかもしれません。「あなたのその服、いろんな人の犠牲の上で成り立ってる商品なんだよ」みたいな。
普段は知らん顔して一消費者として暮らしていても、一皮剝けばそういう加害性の上にあぐらをかくようにして私は生きているのだ、という事実。
きっと罪って本当はそういう生々しいものなんですよね。翌日に取っておいたマナのように、虫がついて、臭う。ウッと鼻をつまんで顔を背けたくなる。私たちの罪って、きっとそういうものなんですよね……。

「消費するな、清貧に生きよ」というような短絡的な断罪は、「今必要が満たされていない人」に対してまで「乏しくても文句を言うな」と口封じをしてしまう危険があります。
マナを与えた神さまは、「空腹でも我慢しろ」みたいな極端なことは仰っていません。マナどころか、肉まで与えてくださるんですから。
それなのに、その上でさらに「もっと持たなければ。もっと蓄えなければ」と、不安と欲望に駆られる私たちの姿が、聖書には描かれている。「ほんとうに必要ではないもの」に、エネルギーや心を割いて、神と人と共に生きることが、二の次になってしまう私たちの姿が、ここにある。

必要以上の領土や権利を求める中で戦争が起こり、かえって命が奪われています。
世界的な気候危機は、「必要以上に欲しがり過ぎた」先進国の責任です。
外国人には生きるのに必要な道さえ与えない、という姿勢が愛国的だとされる風潮があります。
年代や生活環境の違いによって分断を煽り、「あいつらだけに得をさせるものか」と叫ぶ人たちがいます。

このような世のただ中で、「私にも、私と直接の関わりは無いかもしれない『隣人』にも、それぞれに必要なマナをお与えください」と祈り、互いに配慮する者でありたいと願います。


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