反抗も疑いも
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員として働く、牧師です。
皆さんは、旧約聖書の「ヨブ記」という書物をご存じでしょうか。割合有名なので、「聞いたことはある」という人も多いかもしれません。
ヨブ記は、旧約聖書の中で「文学」に分類される書物です。タイトル通り、「ヨブ」という人が主人公。この人は無垢で正しく、神を畏れる模範的な人として描かれています。彼は七人の息子と三人の娘を持ち、多くの家畜や使用人を抱える大富豪で、何というか「内側も外側も完璧!」みたいな人物です。
そのヨブをめぐって、神さまとサタンが会話をするんですね。
神さまはヨブを大変信頼しておられて、「あれほどの者は他にいないだろう」とサタンに自慢するのですが、サタンは「いや、それはあなたが彼の財産や家族を守っているからであって、それを失わせればきっとあなたを呪うに決まってますよ」と煽るのです。
じゃあ試してみよう、ということで、ヨブの身の上に次々と不幸が襲い掛かります。家畜も使用人も、果ては息子や娘たちも皆死んでしまう。ところがヨブはこの激しい嘆きの中でも、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と言い、神を非難せず、神を賛美するのです。このセリフがちょっと有名ですが、まあ、「あんた、真面目も大概にしなさいよ」という感じですよね(笑)
サタンはさらに神さまを挑発し、「持ち物や家族だけでなく本人自身に災いが及べばきっと神を呪うに決まっているよ」と言ったものですから、じゃあもう一回試してみようということになり、今度はヨブ自身が激しい皮膚病に見舞われることになります。当時皮膚病というのは「社会的な死」を意味するような、非常に忌み嫌われていた病ですから、単なる身体的な苦痛を超えた精神的な深い痛みがあったことと思います。しかしヨブは「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って、やはり神を呪うことはしませんでした。どんだけ~。(古い)
ヨブと親しい友人3人が、ヨブの様子を聞いてお見舞いにやって来ますが、あまりのヨブの惨状に声もかけられず、ただ嘆きつつ七日七晩、そばに座り続けるのでした。
やがてついにヨブは、「自分は生まれなかった方が良かった」と、自らの生を呪い始めます。するとそれを聞いた友人たちが順々に「いや、そんな目に遭ったということはやはりあなたに何か罪があったのではないか、あなたの敬虔さが足りなかったせいではないか」と議論し始め、ひたすら友人たちとヨブとの間で「きっとお前が悪かったんだ」「いや、私は悪くない」「悪くないと言っているその態度が悪い」「どうして俺の言うことをちゃんと聞いてくれないんだ」という問答が延々、ヨブ記全体の半分以上の分量で続きます。
そして冒頭の38章、ついに神さまが現れて、ヨブに答えられる、という場面になるわけです。
神さまの応答は、ヨブへの「質問返し」が中心です。「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」「誰がその広がりを定めたかを知っているのか」。世界のあらゆる事象を引き合いに出しながら、「お前はそれらの背後にある秩序を知っているのか、お前はそのようなことを自分ができるのか」と、挑戦的とも思われるような問いをひたすら重ねます。
最後にヨブは、「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと知りました。私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」と答え、そのようなヨブの祈りを受け入れられた神さまはかつて以上にヨブを祝福して、「ヨブ記」は終わります。
私は「ヨブ記」が「正しい人がひどい目に遭ってもそれは仕方のないことで、因果応報を求めるのは人の浅知恵に過ぎないのだから、良いことも悪いことも、全て神さまのご計画と思って受け入れなさい」という教訓であるように感じられて、「そんなおりこうさんなこと、思えへんわ」と、ずっと敬遠していました。
ですが最近改めてこの物語と向き合った時に、気付くところがありました。
ひとつは、これは「文学」であるという「解釈の姿勢」です。教訓的な結論「だけ」を示したいのではなく、長々した問答の過程の中に、人間が神と向き合う時の悩みや葛藤や苦悩がまざまざと描き出されていると感じました。
もしこれがほんの短い数ページ分であれば、私たちは「何だかあっさりとおりこうさんに神の計画を受け入れたヨブ」という部分だけを受け取らざるを得ません。でもヨブ記全体の半分以上を費やして繰り返された問答の中で、「簡単には納得できない私たち」「分かりやすい答えを求めて誰かを否定してしまうこともある私たち」「何とかして自分の理解の枠組みの中に全てを押し込めようと足掻く私たち」の姿が見えたと感じたのでした。
そしてもうひとつ思い知ったのは、「そういう、神の前でただただ葛藤する、のたうち回る私たちのことも、全て神の眼差しの中にあって、それらは否定されていない」ということでした。
神は最後にヨブに対し「お前は何が分かっているのか?」と問い返されてはいますが、「分かっていないお前は滅ぼす」というような結論には至っておられないのですね。
悩み、疑い、葛藤し、「私は間違っていない!」と神に対して立てついて異議申し立てをするヨブを、神は真っ向から受け止めておられる。
ヨブ記は「神に黙って従う模範的な人間と、そんな人間を祝福される神」を伝える物語では無かった。そうではなく、「神のもとで七転八倒しながら、それでも神から離れられない人間、そんな人間をお見捨てにならない神」を描いた物語だった。そのように、見え方が変わりました。
疑う者が疑いのままに、その葛藤の中に置かれ続けた一週間。
先のヨブ記でも、ヨブの友人たちは七日七晩その傍に座っていたとありました。苦しい時、とても受け入れ難いと思われる人生の逆境に出会った時。私たちが「それでも神を信じます、神を賛美します」と、すぐに「呑み込みのいいおりこうさん」になることを、神さまは求めておられないのではないか。むしろ、「こんなこと受け入れられない」「なんで神さまはそんなことをなさるのか」。そういう嘆き、抗い、疑いをぶつける相手として、どっしりと構えてくださっている。そんな気がしてならないのです。
私たちは人生の中で、ヨブのように「灰の中で、自らを素焼きのかけらでかきむしって、血まみれになってのたうち回る」ような、そんな思いをすることがあります。
そんな時、ヨブの友人たちのように「何か悪いところがあったのではないだろうか」と問い、ヨブ自身のように「いや、そんなことはない、なぜなのか分からない、誰かこの納得のいかない私の嘆きを聞いてくれ」と叫びます。そんな問答を何度も繰り返します。
でも、そんな自分を否定したり、信仰が無いと責める必要は無いのだと思います。むしろ神さまはそんな私たちの葛藤さえも受け止めてくださる存在として、確固として共にいてくださる。そう信じます。
クリスチャンのくせに、牧師のくせに、と思われるかもしれませんが、私はそのような苦しみの中で、「神さま、全てを受け入れます」とは言えない自分を感じています。
でもそれで良いのだと思っています。
長い時間をかけて、ひたすらその悲しみの中でのたうって、「神さまなぜですか、なぜですか」と叫ぶ。その過程を経て初めて、いつの日か「わたしの主、わたしの神よ」という告白が腹から出て来る。そう信じます。
ただ無邪気に親を慕っていた幼い子どもが、反抗期を経て自我を確立し、一人の人格として育っていくのと同じように、私たちもまた、神さまに向けてただ「素直」なだけの「良い信仰」を目指すのではなく、時に反抗することも、疑いを抱くことも含めて、神さまご自身に立ち向かっていく。そうしながら、神さまと私たちとの「大きな物語」の紆余曲折を、編み上げていきたいと願います。
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