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聖書の中に「分人主義」を読み取ってみる。

十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

新約聖書 マタイによる福音書 10章2-4節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員として働く牧師です。

ずっと「積ん読」になっていたこの本を読みました。

めちゃくちゃ面白かった……。読み出したら「ふぉー!」と頷きつつ一気に読んでしまいました。

「Individual=個人」はそもそも「(これ以上)分けられない」という意味の単位。だからこの「個人」という認識の中では、「私」は「ひとつである」ということが前提となります。

でも私たちは本当に、首尾一貫した「ひとつ」の人格を生きているのでしょうか。付き合う人、出会う本、置かれた環境……。様々なものから影響を受け、また自らも相手に影響を与え、私たちは私以外の誰かや何かと交流しながら生きています。私の顔と体はひとつだけれど、私たちは対する相手それぞれとの間でそれぞれの自分を生きている。それを平野啓一郎氏は「分人(Dividual)」と呼びます。

家族と過ごす時の私。高校時代の友人と会う時の私。職場での私。一人で読書に没頭する時の私……。これを、しばしばいわれる「ペルソナ(仮面)」の理論で説明することもできます。ですが「ペルソナ」の考え方では、「本当の自分」というひとつの本体が、出会う人によってその場限りの仮の自分を「演じ分けている」ような認識になってしまいます。けれども、私たちはそんなに器用に偽ったり演じたり見せかけたりしているわけではありませんよね。「その人」と過ごす時には自然と「その人と過ごす時の私」が立ち現れて来る。そういうものです。それら「分人」が、人それぞれのバランスで統合されて「私」がいる、そのバランスをとることで自分をより良く生きられるし、他者とも上手く関わっていけるのです。

「どこかにある、たったひとつの、本当の自分」という呪縛から解かれることで、むしろ自分に対しても他者に対しても大らかに受け止められる、素敵な考え方だと思って大いに納得しました。

私が最近感じていた閉塞感も、ここと関わりがあるような気がしました。出かけにくくなり、人と会いにくくなり、出張さえも無くなって、研修だって家でリモートで受けていたこの半年あまり。「職場の私」と「家庭での私」という2つの分人「以外」がずいぶんと抑え込まれてしまっていたんだろうと思います。きっと私は、分人の「分母」が多い方がバランスが良いタイプなのです。いろんな所で、いろんな人やものと関わって、いろんな刺激を受けながら、多様な分人を統合して生きる、それが私の望ましいありようなのだと思いました。良い気付きでした。

ところで平野氏は、「個人」という概念が一神教としてのキリスト教に由来するということを指摘しています。確かにそうです。でも私は、「もしかしたら聖書の中にも分人を見出すことはできるのでは?」なんてことを考えてみました。イエスの弟子は12人います。この12人を、「キリスト者の分人」のモチーフと考えてみると面白い気がします。

12人の弟子は、みんながみんな立派な弟子、立派な信仰者ではありません。弱気な人も、自惚れ屋も、短気なヤツもいます。イエスに従おうとする「信仰者としての私」にも、こんな風に多くの「分人」があるのかもしれません。私の中にペトロ的要素もユダ的要素もある。時にヨハネのようにイエスに甘えてみたり、時に「雷の子」ヤコブのように感情的になってみたり……。

平野氏は、「分人」の考え方をとることで「リセット願望」としての希死念慮を避けられるのではないかと語っています。「生きづらい分人を更新せずに済むように環境を変える」「新しい環境を求めて、好ましい分人の割合を増やしていく」ということが可能になるからでしょう。生きづらさを抱えた「自分全体」を否定してしまうのではなくて、その「割合を減らしていく」というのは、良い考えだなぁと思います。

ですがイエスは、たとえばパウロのためにも死んだし、ユダのためにも死んだのです。積極的で快活な「私」のためにも、陰鬱で悲観的な「私」のためにも死んでくださったのです。私は、私の「ある分人」を受け入れ難く思い、その存在をできる限り小さくしようと望むかもしれませんが、イエスは私の中の「ユダ的分人」もすべて引き受けてくださっているのではないか。そんな風に思いました。

思えばパウロは、キリスト者の共同体としての教会のありようを「ひとつの体」にたとえていました。これもまた「分人的」だなぁと思えてきます。素敵な私も、窮屈な私も、全部私の「大事な分人」のひとり。どれかを否定しきってしまうことなく、あっちを宥めたりこっちを元気付けたりしながら、互いに引き立て合い、バランスを取り合って、うまくやっていきなさい。そんなメッセージを感じる機会となりました。

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