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卒業と死、そして新しいいのち

天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
新約聖書 マタイによる福音書 28章5-8節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

私はいわゆる「牧師」として歩み出してから軸足はずっと学校にあるのですが、多くの牧師は教会をフィールドとして働いておられます。(当たり前か)
けれども、教会で働く牧師さんが学校で非常勤講師として授業を受け持ってくださることもあり、そういう時は「背景」の異なる者同士、良い刺激や学びをもらえたりもします。

先日、ある牧師さんが非常勤としてお勤めの学校の卒業式に出られて、「『神ともにいまして』を卒業式で歌ったんですよ! びっくりしちゃった!」というお話をしてくださいました。

「神ともにいまして」というのはこちらの讃美歌。

なぜこの牧師さんがびっくりされたのかというと、教会ではこの讃美歌は葬儀の時に歌う定番の讃美歌だから。
「葬儀の歌を、卒業式で!」と思われたんですね。
でも我々学校で働く者からすると、「神ともにいまして」は卒業式の定番讃美歌なんです。

神さまがあなたと共にいて、これからの道のりを守ってくださいますように。
どんな困難の中でも、神さまがあなたの行く手を導いてくださいますように。
その道のりの終わりに至る時まで、神さまがあなたを慈しみ守ってくださいますように。
また会う日まで、神さまのお守りがあなたを離れることがありませんように。

歌詞の内容としてはこんな感じです。(私の勝手な意訳ですので、あしからず)

「これからの道のり」を、「卒業後の進路」と捉えるか「地上での命を終えたその後」と捉えるかで、卒業式の歌にもなり葬儀の歌にもなる感じですね。

なるほど、「葬儀の歌だ」という認識でこの讃美歌に親しんでいた人にとっては、卒業式で歌うことがとっても新鮮に感じられたんだな~と、その驚き自体が私にとっても新鮮なものとなりました。

そう考えた時に、「ということは、卒業と死は似ているのかも?」と思い至りました。

卒業は「おめでとう」だけど、死はそうではない……? いや、でも卒業が「これまでの自分との別れ」だと思えば、「卒業もひとつの概念的な死」と言えそうです。

古い自分が死に、新しい自分として新たに歩み始める。
それが卒業なのだとしたら、死を「地上での生からの卒業」と捉えることもできる。

卒業はお祝い事ではありますが、涙も付き物です。別れに涙し、胸に痛みを抱きながらも、春の空の下、顔を上げて歩み出して行く。
それなら、地上の生を終えた時にも、涙や悲しみを湛えつつ「新たな旅立ちを祝う、これからの道のりのために祈る」という心構えがあって良いのかもしれないな、と思いました。

今の私は死がやっぱり怖いです。自分が死ぬのも怖いけど、愛する人たちとの別れがもっと怖い。
年を重ねるにつれて訃報が入る頻度が高くなってきました。決して慣れることのない、この悲しみ。近しい肉親や友人などならなおさらです。

死別の悲しみを取り除くということはできっこないし、できなくて良いのだと思います。でも、その悲しみをどう乗り越えていくかということを考えた時に、「死はひとつの卒業」だという捉え方は、希望に満ちた慰めになるなぁと思います。

今日はイースターです。「復活」の信仰について、このnoteでも度々記事にしてきました。

改めて復活について語ろうとする時、今回「卒業」について思い巡らしたことと合わせて、「復活とは、『その先』への希望である」と言いたい気がしました。

絶望しそうな暗闇の中で、先が見えなくても。
膝をつき、へたりこみ、もうこれ以上進めないように思われても。
「神ともにいまして」、その先の道のりを照らし、導き、伴ってくださる。

悲しみの中にある人に、挫折に打ちひしがれる人に、そんな希望が確かに伝わるイースターであればいいなと思います。


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