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いつの間にか復活のイエスが共にいた

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
新約聖書 ヨハネによる福音書 20章11-16節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

ハッピーイースター(・ω・)☆
というわけで今日はイースターです。

説明しよう! イースターとは!
イエス・キリストが十字架で死んだ後、3日目に当たる日曜日の朝に復活されたということをお祝いする日なのである!
ちなみに卵を飾ったりするのは、卵が新しい命の象徴ということである!
なお、イースターはクリスマスとは違って日付が決まっておらず、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」ということになっているので、3月の終わり頃だったり4月の前半だったりするのである! 2024年のイースターは3月31日だそうだ!
以上、ざっくり過ぎる説明終了。もっと詳しくお知りになりたい方はもっとかしこそうな人に聞きましょう!(ダメな教員)(いや、授業ならちゃんと答えます(笑))

「復活」って言うと、「なんやそれ、そんなんあるかいな」となる人も多いでしょうし、私も正直かつては「復活…教義としては分かっているけど、自分の信仰的実感としてはどうかなぁ…」という部分がありました。

ところがこの2年noteを書き続けていて気付いたのは、「私、実はめちゃくちゃ復活のイエスさまの存在に支えられてるし、そこに自分の軸足を置いてるんやなぁ」ってことでした。

noteにはタグ付け機能があります。私も毎回の記事で、いい加減ながらもタグ付けをしています。大抵は記事中に出てきた単語と引用した聖書箇所、「聖書科」といった自分の属性なんかを入れています。
そんな中でふと、「あれ? 私自分で思ってるより『復活』をタグに入れること多いなぁ」ということに気が付いたのでした。

かつてはよく分からなかったはずの復活が、いつの間にか今の私を押し出す一番の信仰的実感になっている。不思議なものです。

私にとっての「復活」への信仰をできるだけ分かりやすい言葉に置き換えてみると、「イエスさまが確かに今私と一緒におられる」という感覚だと思います。

「WWJD」という言葉をご存じでしょうか。「What Would Jesus Do?」の頭文字で、「イエスさまならどうされるだろう?」という祈りの言葉です。
クリスチャンになりたての頃の私は、いただきもののキーホルダーか何かに書いてあったこの言葉を見て、「あ、この感覚は素敵だなぁ!」と感銘を受けたのでした。

困った時、迷った時、臆する時。そんな足踏みするような場面場面で、「個人としての自分」は逃げたり目を逸らしたりしたくなるんだけど、「イエスさまだったらどうされるだろう」「イエスさまだったら何を喜ばれるだろう」と思うことで、自分にとってより良い方を選べる気がして、いつからかそういう考え方が身についていきました。

もちろん、人として弱ってしまう時もしょっちゅうありますが、ひと時落ち込んでダメになって倒れ込んでしまったとしても、また立ち上がって歩み出す力をくれるのはやはりこの「イエスさまだったら」という思いなのです。

絶望を感じる時でも、孤独に思える時でも、「イエスさまだったら」と考えてみる時、私にとってイエスさまは「そこに」います。
この「共にいるイエス」、とりわけ「迷いの時に共にいてくださるイエス」こそが、私にとっての「復活の主」なのだな、と思うのです。

冒頭に引用した聖句は、ヨハネによる福音書が伝える復活物語の一場面です。愛する師を失って絶望する弟子マリアが墓で涙していると、背後に復活のイエスが現れます。
2年前のイースターにも、この聖句を引用して記事を書いています。

私たちが「もう終わりだ」と思うようなそんな人生の暗い局面で、実は復活のイエスがすぐ傍に立っていてくださるということを、この物語からも感じます。

「復活」ということ自体が受け入れにくくても、信じられなくても、それはそれで良いのです。そんなあなたとも、復活のイエスは共にいてくださっていますから。
いつかあなたがふと振り返った時、「ああ、ずっと前から私は復活のイエスさまと一緒だったんだな」と、大きな安心感と深い喜びを味わう日が来るかもしれません。
一人でも多くの方にそのような日が訪れることを信じつつ、新しい春、私は私の場所での私なりの伝道の営みを続けていきたいと思います。


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