見出し画像

なぜ僕たちは教育するのか (2)

この記事は、前回の続編として、執筆後から考えたことをまとめるためのものです。前回の記事はこちらをご参照ください。

昔、僕は使わなくなった自転車を後輩にあげたことがありました。後輩は大学から家まで長いこと歩かなければいけなかったので、新品ではないけども、自転車をもらえて感謝してくれました。

しかしそこで分かったのが、後輩は長いこと自転車に乗っておらず、乗り方を忘れてしまったようでした。心配になった私は、大学の駐車場で後輩がちゃんと乗れるようになれるまで、練習に付き合うことにしました。

私は高校入学以来、今まで約20年間ほぼ毎日自転車に乗っています。なので自転車に乗れないという感覚は少し不思議でした。実際、後輩はまっすぐ漕げるまで何度もヨロヨロになり、バランスを崩してコケそうになっていました。僕は、娘が初めて自転車を買った時のことを思い出しました。

人間、やっていないことは慣れていないので、簡単にはできないものです。ですが何回バランスを崩しても、自転車に乗ろうとする後輩の姿は、とても美しかったのです。それを誰が笑うことができるでしょうか。

ここで一つ、改めて気付いたことがあります。人はどんなことであれ、何かに一生懸命取り組んでいる姿に感動するものだということです。年を取ってから大学で学び直す姿に感動を覚えるのも、その姿勢があってこそのものです。

このような理由から、先日の機械翻訳を使ったであろう学生にしても、その姿勢に感動どころか違和感を覚えたのだろうと思います。これがSNSで外国人との交流をするのならまだしも、大学の課題で機械翻訳を使うこと、そしてそれに何の罪悪感もないのだとしたら、次回の授業ではじっくりと話をする(そして聞く)必要がありそうです。

そしてこの自転車の後輩には後日談があります。先日、機械翻訳の話を後輩にし、意見を求めたところ、「自分も高校生のころ、実はやっていたんです」と告白してくれました。

しかし当時の英語の先生は非常に厳しく、「おい、ここのXXXという単語の意味はなんだ?」と追求され、答えられず、「こういうのは、自分でやってこい」と一喝されたというのです。まさに私が想像していたのと同じような状況でした。

それ以来後輩は機械翻訳を使わず、大学でも課題を自力で頑張っているそうです。しかし他の学生は機械翻訳を使っているようで、しかもオンライン試験なのを良いことに、機械翻訳を使って、出てきた訳文をちょいちょいとイジって、提出しているそうです。

担当教員はそれに気づかなかったのか、「皆さん、良くできてますね!平均点が8割を超えました」と喜んだそうです。普通、語学教師であれば機械翻訳かどうかはすぐに判別がついてほしい。個人的にこの教員の反応は残念です。

しかし出来が良かったことを受けて、次回の試験は課題量が増えたそうです。そこでも後輩は機械翻訳を使っていませんでしたが、使っている学生のことを「ムカつく」と表現していました。

ここに一つの真理があるように思います。

私は4年前、TEDxKobeというイベントで登壇させていただき、通訳とコミュニケーションについて英語でトークさせていただきました。結果、13分弱のトークとなりましたが、ここに至るまで約一年かかりました。

そこで伝えたいメッセージは何か考え、プレゼンしてみて、修正するのを何十回と繰り返しました。その時に一度出てきてボツにした考えに、「経験質」という言葉(造語?)があります。

当時から機械翻訳は飛躍的な進歩を遂げており、人間の通訳者が仕事を奪われるかもしれない、という論調が多く聴かれてきた時代です。しかし翻訳を機械に任せ、AIに作曲させ、AIの歌声を聴き・・・となっていくにつれて、そこに何か一つ大事なものが抜けていると考えました。

それはAIではなく人間が何かを経験すること、そしてそこには価値があったんだということです。今までは機械翻訳がここまで進歩するとは考えられませんでした。人間が何かを自分でするのは当たり前ではないかということです。しかし21世紀の現在、この前提が崩れつつあります。

そこでは「これは人間がやったの?それともAI?」という問いを一つ挟まないといけなくなりました。「挟まないといけない」とまではいかなくとも、気づけば「これは人間かAIか」と自問している自分に気づくことは多いのではないでしょうか。そしてAIがしていると分かった途端、どこかに虚しさを覚えないでしょうか

それまでは経験「値」があれば能力があることの証明になっていたものが、現代ではそれでは十分でなく、経験「質」まで見定めないといけない時代になりました。今の考えはここまで。続きはまた次回、書こうと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?