見出し画像

ノート:田村美由紀先生の著作に対する感想

これまで題材とされた作品の感想と、論考に対する所感を並べておきます。ラインナップ等は以下のHPより。今後、適宜更新していきます。(業績欄がアップデートされるたびに通知されるシステムがほしい。)
外部資金獲得欄に記述があるので、来年か再来年あたりには単著を読めるのではないかと楽しみにしておきます。

汚染された身体と抵抗のディスコース―吉村萬壱『ボラード病』を読む

坪井秀人、シュテフィ・リヒター、マルティン・ロート編『世界のなかのポスト3.11―ヨーロッパと日本の対話』, 新曜社, 東京, 2019年03月, pp.233-253

東日本大震災後の共同体の同調圧力の不穏を少女の回想で炙り出した『ボラード病』は、中編なのでサラッと読める。p26でウサギを「畜生」と呼んだ時点で不穏さがビンビンに伝わり、母や同級生の肉体が、汚染物質を垂れ流し破裂させるグロテスクな袋としてイメージされる。

ラストの呪詛も圧巻である。ボラードは船を繋いでおくため岸壁に設置される杭のことで、明らかに「絆」を念頭において批判しているのだが、杭として縛り付けられる側と杭をベンチマークにして漂流する側の両方がお互いを「病気」だと主張して、「ボラード病」とはどちらを指す言葉なのか混乱をもたらしているのもまた不穏だった。

論考では更に精緻な言葉で上記の感想を補強してくれ、自分の語彙力のなさをまざまざと自覚したのだが・・・ラストの呪詛が参照点として「鏡」を求めつつ、歪んだ便器のパイプに映した肖像を通して、歪んでいるのは果たして自分か、参照点か、という不安を生じさせつつ、矛盾を孕んでいるという認知アプローチの限界を提示し、それを乗り越えるためのヒントを身体性へと求めていく。

具体的にはそれは「結び合い」を象徴する鎖で繋がった3個セットのスタンプに感じた違和感をトイレに流すことで拭い去ろうとし、嘔吐するクラスメイトを不可視化する教室内の合唱に対し尿意で応答する、同調圧力に満ちた外的世界と、それに順応できない身体による抵抗の表出であると。そしてまた出血という、おそらくは汚染による健康被害を月経によるものへと意味をずらし、被爆と遺伝という再生産の不安を引き受けられた女性性、「抱いてみろよ臆病者」に表される管理者としての男性がわざわざ書き込まれ、既成のジェンダー原理の反復にも目が向けられているとの指摘。

さらにはオリンピックやフーコーの「規律化」の議論を参照しながら、身体を特定の政治的文脈に布置化し、逸脱する制御できない身体を縛り付ける権力の特性に目を向けていく。身体こそが、管理と抵抗と緊張関係の最前線にある、という問題認識がたいへん腑に落ちました。

なお、著者の吉村萬壱氏もコメントを寄せています。

傷ついた男性性を問い直す―谷崎潤一郎「残虐記」におけるクィアな欲望の動態を手がかりに

坪井秀人編著『戦後日本文化再考』, 三人社, 京都, 2019年10月, pp.476-499

『残虐記』は未完作(全集に収録)で、未完の理由は創作意欲の減退か「婦人公論」との方針の違いかはハッキリしないらしい。原爆被爆者の性の問題を描くにあたり、男の自殺にかかる嫌疑をかけられた妻の事件筆録を「T」という作家が解読するという語りの構造を持つことで、異性愛規範を持つ作家が、男、妻、情人の三者関係におけるクィアな秩序を見落とすこととなっているという。

これを谷崎が意図的にやってたとしたら凄い。小説という媒体を使う意義としてもう一つ、男と情人の容姿が似ている/似ていないことを曖昧にし、ホモソーシャルな秩序とクィアな秩序のいずれが成立していたのか不明確になる点も指摘されている。

容姿認識の曖昧さについては、『寝ても覚めても』を想起した。人間は合理的で常識的な行動をとろうと試みる。時に心の綾やその他の理由でその行動をとれないが、だからこそその結果がハッピーだろうとバッドだろうと納得できる。しかし、この小説はそんな次元を超えているのだ。

口述筆記というケア労働―谷崎潤一郎と筆記者・伊吹和子の事例を中心に(研究ノート)

『日本研究』第62号, 国際日本文化研究センター, 2021年03月, pp.173-184

晩年右手が使えなくなった谷崎の執筆代行のために中央公論社が雇った伊吹の体験は『われよりほかに』にまとめられており、そのテキストをもとにケアの論理で執筆代行を解釈し直した論考。

口述者と筆記者との主従関係、小説家という職業の公私境界が曖昧でありケア役割との混同が生じる構造があること、筆記者は透明であることで作家の主体性の動揺を防ぐ必要があること、そのために女性の社会的低階層が利用されていること、かつ性的身体としてまなざされることなどを鋭く指摘している。

それでいて4節では「ケアの論理が目指すのは、既存のジェンダー秩序がもたらす抑圧や搾取の構造を批判的に検証することだけではない。それは、これまで依存する主体に付与されてきた否定的な意味を組み替え、依存や配慮を基層とする新たな関係性の回路を模索していくためのしなやかな思想でもある。」とあり、ちょっと感動した。

「伊吹の筆記者としての振る舞い自体が、谷崎を「わがまま放題のただの老人」と「小説家」とに分かつ<境界線>を形成している」と、ケア関係をアイデンティティの生成過程として捉え直している。こうした関係は小説のみならず広く芸術分野全般に敷衍できるとしているが、ひょっとしたらアカデミズムも?という再帰的な推測もできる。

それにしても「口述」を「口授」と言い、筆記者を「お嫁さん」と呼び、性的に際どい口述をすることで筆記者を試すような谷崎の言動は今日に至り、男性読者すらも規範意識の違いに隔世の感を覚えるものである。

完結する物語、完結しない声―崎山多美「ピンギヒラ坂夜行」から考える

坪井秀人編『戦後日本の傷跡』, 臨川書店, 京都, 2022年02月, pp.183-195

「ピンギヒラ坂夜行」自体は短編で、行き場を失った人々が逃げ込む首吊りの名所ピンギヒラで、共同体のために降霊と慰霊を行うピサラ・アンガが、ある夜降ろした霊がアンガ自身の関係者でありながらそれが誰かを"思い出せない"ことに絶望することでアンガもまた自死を選ぶというストーリー。マチを守る客観的・特権的立場に、個人史を介してシャーマンすら安住していられないことが描かれている。

論考ではそうした生者と死者の不可分性、単なる二元論では割り切れない関係性が様々な先行分析を引用しつつ整理される。「生者の内奥に深々と秘められた、あるいは抑圧・隠蔽された過去の体験、記憶」を想起する死者と接するために、声を媒介とし、聴く行為を弔いの態様となす儀礼としての口寄せが発展して来た経緯を示すことで、それが「抑圧された戦争の記憶や、死者に対する哀切や恨み辛みが混淆した感情を物語として整理し、民族儀礼の中にフォーマットすることを通して、死者との関係を再構築する手助けをしてきた」というグリーフケアの意味合いを帯びていたことが述べられる。

そして、本作は死者の声を聴き損ねたことで破局に至り、「他者に思い出されないことは、自らの存在の基盤を失うほどの重みをもつ」という死者と生者の関係の双方向性を示したテクストとして理解される。

しかし、後半ではそれにとどまらないテクストのメタ解釈が示される。「自死という非常に可視化されやすく、悲劇的な傷が、テクストの末尾で唐突に描かれるため、それを理解可能な出来事として位置づけようとする方向へと読者の解釈は向かう」ことに異議が唱えられる。
「物語」というキーワードが出たが、物語化されることで記憶されるということは、物語にされ得ない物語は、忘却され、不可視化されていくことと表裏一体である。また、聴く行為をアンガ独りに押しつけて、物語られない物語に耳を塞いできた共同体の暴力性の証でもある。
このことを沖縄という土地を舞台にしたことと関連させ、本来は日米軍事同盟という暴力装置の問題であるはずが、「沖縄問題」というアジェンダ化によってあたかも「沖縄」という土地の問題であると矮小化され不可視化されている実例を挙げて論じているのだが、それだけでなく、「ストーリー」によって、あるいは「ドラマ」によって感情を喚起し、国家主義への傾倒を求めるプロパガンダに敷衍して批判的視座を持ち得るヒントにもなると感じた。

「傷」をめぐる想像力―桐野夏生『残虐記』論

『文学・語学』第234号, 全国大学国語国文学会, 2022年04月, pp.24-36

もう毎回言っているが、今論考も明晰な言葉を次々に流し込まれて気持ちよく読めた。全ページ、全段落に傍線引きたい。『残虐記』というタイトルが谷崎の著作と通じることから、日本文学史における谷崎→桐野夏生という系譜をなぞる論考になるのかと想像していたら、「セカンドレイプ」が問題として前景化した現代に引きつけた問題意識のもとに、「言葉」と「想像力」という二つの要素から本作を解釈する従来の論考を乗り越えて、本作が夫からの手紙という入れ子構造を取ることによって生じている罠を分析する切実な内容となっていた。

まず、『残虐記』(桐野夏生)を一読した感想を述べると、本作は工員に監禁された女子小学生が当時を振り返った小説内小説とその成立背景を現在の夫の手紙から読む、新潟の実在事件をモチーフにしたフィクションである。

監禁パートでは、自分を誘拐した男が、昼は性的嫌がらせをする「大人」だが、夜になると「同級生」としてクラスの女の子に翻弄される関係性を望み、力関係が転換するという二人の奇怪な世界が描かれつつ、押し入れの中に保管されている「おおたみちこ」と別の女の子の名前が書いた赤いランドセルや、監禁された隣室の「ヤタベさん」がいつか救出してくれるのではないかと願い、交換日記をちぎってドアの隙間から差し出すなどの、脱出に向けた努力が示される。そして救出のときの間隙に、ヤタベさんの住む隣室からの覗き穴の存在を知ることで決定的な屈辱を負う。

次に社会復帰パートでは、真実を聞き出そうとする両親、警察や精神科医と、好奇の目を向ける世間に対し、誰も分かってくれない孤独が「彼なら分かってくれる」という依存へ転換する倒錯と、そして孤独を馴らすために始めた「夜の夢」という想像を巡らす営みがついに男性性欲という壁にぶつかって行き詰まりつつも、ついには小説内小説において、工員の孤独や性的虐待の過去が異様な粒度で描かれることで、歪んだ性欲を、同性愛や家族愛という媒介を通じて理解しようとするプロセスが掘り出されている。

「真実よりも想像のほうが強く惹きつけられる」と、登場人物が語るとおり、想像を通じて被害者の女性がトラウマを克服していくプロセスである。一方で、ラストの夫からの手紙では「別解」も示され、彼女が想像を巡らせる主体となることで受け取る益、つまり「都合の良さ」にまで関心が示されていると感じた。

以上の感想は、作中で明示はされないものの、どの解答を真実として選び取るかを問われていると考えたことによって導出されたと思う。

ミステリ創作の対峙する後期クイーン的問題への事実上の対処方法となっている「別解潰し」、つまり荒唐無稽なモノも含めた多様な別解を提示することで、最もエレガントで論理整合的な解答に対して「真実」としての説得力を付与するテクニックに慣れた読者は、そうした読み方をしがちだと思える。

後期クイーン的問題(こうきクイーンてきもんだい、「後期クイーン問題」とも)は、推理作家のエラリー・クイーンが著した後期作品群に典型的に見られる2つの問題の総称。「後期のエラリー・クイーン シリーズの問題」の意[要出典]。推理作家法月綸太郎が論文「初期クイーン論」で『ギリシア棺の謎』『Yの悲劇』『シャム双子の謎』といった作品について分析する中で指摘した問題である。
「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」についてである。つまり“推理小説の中”という閉じられた世界の内側では、どんなに緻密に論理を組み立てたとしても、探偵が唯一の真相を確定することはできない。なぜなら、探偵に与えられた手がかりが完全に揃ったものである、あるいはその中に偽の手がかりが混ざっていないという保証ができない、つまり、「探偵の知らない情報が存在する(かもしれない)ことを探偵は察知できない」からである。

しかし、論考では、そうした「真実性」に対する関心こそが暴力の淵源になっているのではないかと鋭く批判されることになる。ノンフィクションが事件に物語を付与し、単純化・類型化することには「解釈可能なものへと回収しようとする人々の欲望が投影されている」と指摘した上で、三人称的な客観報道の形を取ることで「取材源が文体の中に溶かし込まれ、結果として得た情報だけを羅列することが可能になったことで、意図的な出典情報の隠蔽や、責任の所在の曖昧化など」を招いているとする。

小説という手法は、視点の多様性を導入することで、単線的な解釈に抵抗し、「加害者と被害者の二者関係に限定された関係の中に真実を探り当てようとする狭隘な見方に抵抗し、それを欲望する人々の認識の枠組みそのものを揺さぶることを可能にする。つまり、ここでは真実性の是非を争点とするのではなく、真実の自明性そのものを宙吊りにすることが目論まれている」ものであるとする。ここまでは先行研究が至っている「語りによるトラウマの克服」という被害女性の心理に着目した分析である。

本論考の特徴は、ここから『残虐記』という小説(「残虐記」という小説内小説と、夫からの手紙で構成される)の入れ子構造に着目することで、被害女性が行った抵抗の手法としての「真実性の宙吊り」が利用され、新たな想像力の客体へと再反転させられているとする分析である。

つまり、夫であり公判検事でもある「宮坂」は、事件に関する機密性の高い文書にもアクセスでき、夫として親密圏を共有することで、「保有する情報の量や質において圧倒的優位にある人物」として設定され、そして彼女が記した「想像」や提示された「真実」の信憑性について批評することで、主体性を取り戻した彼女を想像力の客体へと再反転させる暴力を行使しているという。

論考ではそこまで書いていないが、読者が「別解」について思慮することは、夫の行使するこうした権力性の鏡像として提示されており、反省を促すものとなっている。

では、想像力はどのようなものであるべきか。答えは論考内にすでに「他者の「傷」に強制的に介入し、語りたくないことをも暴き立てるようなその態度は、本来他者に対する共感や理解の地平を築く足がかりとなるはずの想像力の本質を捉え損なった、「ネガティブな想像の暴力」と呼ぶことができるだろう。」とあるように、自らの欲望を充足させる道具としてではなく、「共感や理解」のためのものであると提出されている。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?