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好かれようとする介護はしんどい

介護の仕事は、高齢者との関りである。それはつまり人間関係である。
その人間関係における苦しみの1つとして「相手から嫌われる」という現象が挙げられる。

嫌われる原因が自分に非がある場合は分かるが、ときには思いつく理由がないまま他人から嫌われることもある。

そこで「私が何かしましたか?」「怒らせる原因があったら治しますから、どうぞ言って下さい」なんて言ったとしても、「・・・いえ、別に」と相手から言われて先に進まないこともある。

他人から嫌われるということは、ある種の不快感である。
そして、人間は不快感を軽減しようとする。
そこで「相手から好かれる」ための努力をしようとする。

しかし、好かれるということもまた嫌われると同様に、相手からうまく好かれなかったり、反対になぜか好かれたりする。

このような「嫌われる」という不快感もストレスであるが、「好かれる」という努力や結果にもストレスを感じるのが人間である。



――― さて、冒頭で介護の仕事で切り出しておいて話が脱線したが、介護の仕事も人間関係であるので、「嫌われる」「好かれる」という現象とストレス、いや”苦しみ”が発生する。

しかしそれもまた、結局のところ高齢者から「嫌われる」という不快感を解消するために、高齢者から「好かれる」という努力をすることから生じる苦しみである。

誤解のないようにお伝えすると、別に「嫌われる」ということを受け入れろとか、「好かれる」努力なんて無駄だと言いたいわけではない。

客商売では「嫌われる」ことを避け、「好かれる」というほうが物事が円滑に進むことはある。
特に芸能人などの自身の存在をエンタメとして提供している人たちは、「好かれる」ということが仕事と言っても過言ではない。営業マンだって、顧客から見れば「この人なら買ってもいいかな」と思えるよう「好かれる」ための努力を惜しまない。

しかし、これらはあくまで「仕事」の話であって「個人」の話ではない。
仕事における「嫌われる」「好かれる」は、その人という存在に対して「嫌われる」「好かれる」というわけではない。

多くの人たちは、この違いを誤解している。だから「嫌われる」ことに苦しんで、そして「好かれる」努力をしては苦しむと思う。



例えば、認知症の高齢者に対して介護をしているとする。

認知症において感情の起伏が激しい方はいるが、そこで「嫌われない」ようにしたり「好かれる」ための努力をする介護者がいる。それはつまり、ご機嫌取りである。

そのようなご機嫌取りをしてしまうのは、そこで怒鳴られたりするのが嫌だからであり、笑って介助に応じてくれたほうが安心できるからである。

しかし、それは介護をする側の都合である。その都合とは円滑に介助が進行っするという話もあるが、「嫌われる」ということで「個人」が傷つかないようにしたいからだ。あるいは利用者から「好かれる」ことで「個人」が悦びたいからだ。

それは果たして、介護の「仕事」としてはいかがだろう。

ちなみに、これは個人的な考えだが、感情の起伏が激しい状態の認知症の方に対してご機嫌とりは無駄だと思っている。

そもそも、認知症の方からすれば、介護者が「嫌われる」ことを避けるための働きかけも「好かれる」ための関わり方も関係ない。せいぜい「この人はいい人だな」と一瞬思われて終わるだけだ。

一方、認知症の方は(なぜか)相手の感情の乱れを敏感に察知する傾向にある。過度に「嫌われたくない、好かれよう」と思いながら関わろうとすると、そのプレッシャーが認知症の方に伝わってしまう。

その結果として、嫌われるまではいかないが好かれることもなくなる。介助ができたとしてもお互いにぎこちなくなる。

そのため、「嫌われたくない、好かれよう」というご機嫌とりに労力を割くよりだったら、介護のプロとして相手の話を傾聴し、受容と共感をもって関わることに専念するほうが適切なケアにつながる。


私は介護の仕事において、利用者たる高齢者から好かれたいとは思っていない。それはメンタルが強いからではなく、介護のプロとしての意識だ。

特に認知症介護を主にしていることもあり、利用者の話をガッツリ傾聴することで「話を聞いてくれて嬉しい」と思ってもらえれば嬉しいが、それで利用者から「この介護職員さんはいい人だ」と思ってほしいなんて微塵も期待していない。

もちろん、御礼を言われたり褒められたりすると嬉しいが、それはその場だけの感情で終わらせている。

そもそも、認知症でなくても、その日にお互いに良好な関係が作れたと思っても、翌日以降になったらフラットな関係になったり、前日までの良好な雰囲気が嘘のように意味不明に険悪になることもある。

そのため、下手に「好かれた」と思っていると、翌日以降に急に不機嫌な態度になることもある。時には「こいつに叩かれた!」なんて事実無根なことを言われたこともある。

――― が、それは「仕事」の話であって「個人」の問題ではない。

そう思えることができれば、「認知症の症状として、本日は感情レベルとして不機嫌なのだな」とプロ目線で冷静になれるし、事実無根であれば暴力を振るわれたという訴えに対して職場に状況説明だってできる。

そこでパニックになったりするのは、誰よりも大切な自分という存在が傷つけられたと錯覚しているからだ。このような事態になっても、個人を傷つけられたわけでないと分かれば、「やれやり、面倒くさいことになったな」と思える。まぁ、口に出さないほうがよいが。



「嫌われる」ことを避け、「好かれる」ことを求めることは自然だ。

しかし、環境や相手のありようによっては徒労に終わることもある。

そもそも、私たちは嫌われないように生きているわけでも、好かれるために生きているわけではない。 

自分という人生を生き抜くだけである。

そのためには人間同士の関わりは避けられないが、そこでは自分という存在、そして相手(他人)という存在を尊重し合うことさえすればいい。

他人を傷つけようなんて思う人はいない。

自分だって意図的に他人を傷つけようなんて思わないだろう。

それでも「嫌われる」ことは当然あるし、「好かれる」こともある。
それはそれで仕方がない。コントロールしようがない。

それがどの状況や環境下で起きていても、自分という存在は決して傷つけられないと思えば、人生はもっと気楽になるのではないだろうか。



ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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