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「話せば分かる」は本当か?

■ 「すぐに」理解してもらえると思わない


「話せばわかる」という言葉があるが、これは本当だろうか?

――― 結論から言えば、これは本当であると思う。

しかし、誤解しないでいただきたいのは「話せばすぐに理解してもらえる」という意味ではないということだ。

どういうことか?

私たちは言語や図などを用いて、自分の考えを他人に伝える。伝え方に関して勉強したり、事前に何度も練習することだってある。

しかし、多くの人はここで「すぐに」理解してもらおうとして失敗する。

自分の考えが相手になかなか伝わらないと、徐々にイライラしてくる。相手は自分のことを理解するつもりがないと思ったり、相手に理解力がないなどと決めつける。

そのように考える気持ちは理解できなくもないが、自分の考えを他人に伝えるということは時間がかかるという覚悟が必要だと思うべきだ。


■ 「その場で」理解してもらえるとも、思わない


ここでさらに誤解しないでいただきたいことがある。それは「じゃあ、話す時間をたっぷり用意して、相手が分かるまで話せば理解してもらえる」と思わないことである。

多くの人が経験したことがあると思うが、会議などで深夜まで話し合いをしたのに何も決まらなかったり、一部の人たちの意見が対立して平行線のまま終わるということは珍しくない。

それは「その場で」物事をすべて決めてしまおうとするからだ。
また、「その場で」相手に理解してもらおうとするからだ。

話し合いとは、歌ってその場で評価が出る”のど自慢大会”のようにはいかない。何かを決める、何かの意思統一を図るとき、その内容が重要であるほどに「その場で」決めようとするなんてリスクがある。

つまり、「話せば分かる」というのは、その場でじっくり時間をかけて話せば理解し合えるというものではない、ということだ。


■ 場所と時間を空けることが重要


では、どのように考えれば良いのか?

予めお伝えしておくと、「話せば分かる」について具体的な方法をお伝えすることはしない。というか、具体的な方法なんてないと言ったほうが良い。あえて言えば、「耐えてくれ」「忍耐を持とう」くらいだ。

上記でもお伝えしたように、自分の考えを伝えたところですぐに他人に伝わることはない。また、一度の話し合いの場ですんなり意見がまとまることもない。

しかし、話し合いを終えてその場を離れた後で、相手が自分の考えを理解することはある。それどころか、こちらの考えに同意するようなこともある。

自分の考えを伝えている場では理解できなかった相手が、場所を変えて時間経過によって「あの人の言いたかったことは、こういうことか」と脳内で情報がつながることがある。

それは1つの「気づき」や「ひらめき」と言っても良いかもしれない。

そして、それを周囲にも伝えて理解を促すこともある。


■  「誰が言ったか」は忘れられる


・・・が、1つだけ残念なお知らせをしておく。
自分の考えを伝えた相手は、「これは〇〇さんの考えであり、それを理解した私は〇〇さんの考えに同意して、みなさんにも伝えます」とはならない。

どちらかと言えば、「これは自分の考えなんですけれど」というスタンスで語り始める。

以前その相手に考えを伝えた自分としては「いやいや、その考えは自分がずっと前に言ったことでしょ。何を我が物顔で言っているのだ!!」と憤慨するに違いない。

例えば、会議の場で「職場の言葉遣いをもう少し正したほうが良いと思います」と問題提起したとする。
それに対して、会議に参加していた人たちは「別に問題ないのでは?」「気にし過ぎでは?」と異論を唱えて、その問題提起の話はうやむやになった。

しかし、それから時間が経過してから、問題提起した本人も忘れたころに、別な職員から「来客時の対応を見直してはどうか?」「新人の口のきき方をどうこう言う前に、指導員の乱暴な言い方をやめてはどうか?」という問題提議が出た。

これに対して、以前に類似の内容を言った本人は喜んだ。自分の言ったことがようやく伝わった、と。・・・が、今回問題提議をした人たちは、以前にそのような問題提議があったことを忘れている。それどころか「自分の意見ですが」といった顔をして発言をするのだ。


■  記憶に残ると、いずれ「個人の考え」になる


なんだかモヤモヤするような話だが、割とこの手の話はある。

なぜ、このような状況になるのか? 
なぜ、当時は理解も同意もしなかった人たちが、以前自分が伝えた考えを本人をほったらかしにして、さも自分の意見のように言うのか?

これは、人間は他人の考えを聞いているときはちゃんと理解していないが、ひとまず脳内には記憶として残っているからだ。

その記憶は時間とともに自分の考えと経験を経て練り上げられていき、徐々に「個人の考え」として形になる。

人間は他人の話を聞いてないようで、断片的だが一応は覚えている。しかし、誰が・いつ・どこで言ったのかまでは覚えていないし、話を聞いているときに話の内容の意図まで汲み取ろうともしない。

しかし、上記の例えで言えば「職場の言葉遣いが悪い」というキーワードが記憶に残っていたからこそ、それ以降に職場を眺めていたとき、ある人は来客対応が気になり、ある人は新人教育の指導員のあり方が目についた、ということになる。
結果的に見れば、この職場では、少なくとも来客と新人教育における言葉遣いは改善する流れになったということになる。


■ 「自分が言った」は重要ではない


ここまでで納得できない人も多いと思う。

だからこそ、「話せば分かる」において具体的にお伝えすると「耐えてくれ」とお伝えした次第だ。

つまり、「話せば分かる」とは、すぐに分かっても得らえないし、その場で分かってもらえないし、自分が言ったことも忘れられてしまうことがある、ということなのだ。

しかし、どうだろう?
自分の考えを他人に伝えるとき、「これは私が言った」という主張は意味があるのだろうか?
そもそも、話すことの意義は自己承認欲求をみたすことではなく、何かしらの意図を達成するためにあるはずだ。そこには「これは私が言った」は不要なのではないか?

仮に「それは以前、私が言ったことですが・・・」と言ったとき、周囲から「え、そうだっけ?」と言われたとしても、「まあいいか」と思うのが健全である。むしろ、それでいいのだ。

大切なのは誰が言ったかではない。

「話せば分かる」を本質的に理解できれば、それは自分の考えを種まきをしていることであり、時間をかけて他人や周囲が我が身として行動できるようになったことだ。

「話せば分かる」。腑に落ちないかもしれないが、すぐに周囲に理解されなくても、1回くらいは自分の考えを伝えてみても良いのではないか。何が起こるかは言葉にしないと分からない。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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