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助けてもらったほうが良いのに、助けを求めることができない理由

昨日は介護現場における事故を想定した、いわゆる緊急時における心構えとして、まずは「周囲に助けを求める」を第一にすることをお伝えした。

緊急事態においては周囲に協力を得ることで事態の悪化を防止したり、被害を最小限に抑えることが重要である。
仮に緊急事態におけるスキルや経験が豊富な個人がいても、適切に対応しようとすると人手は必要となる。

緊急事態に対応する目的は、個人で対処することではなく、その事態を適切に収束させることを忘れてはいけない。

だからこそ、可能な限りの援助者を募る意味でも、第一に「助けを求める」ということは重要なのだ。

しかし、緊急事態に限らず、日常のちょっとした場面でも「助けを求める」ということをしない人は多いことが伺える。

そこで本記事では、助けを求めない理由について考察してみたい。


■  助けを求めない理由①:「自分で何とかできる」と思う


助けを求めない理由の1つとして、「自分で何とかできる」とか「このくらいなら一人でできる」と考えてしまうことが挙げられる。

要は、目の前に対処すべき事項に対しての目論見の甘さである。
それは自分のスキルや経験への過信もあれば、逆に経験不足から目測を誤ることもあろう。
また、「これを自分一人で対応できたら、きっと周囲は凄いと思うだろう」という承認欲求としての期待もあるかもしれない。

いずれにせよ、この手の人たちは、助けを求める以前に周囲からは自分本位な考え方をしているように見られる。
「自分で何とかできるから、助けなんて不要だろう」という考えを改めて、全体の目的意識に目を向けた行動をするほうが良い。

本人は自身の能力を発揮したいのだろうが、周囲は「あの人はまた一人で突っ走って」「自己判断で進めて、フォローする身にもなってよ」「できるのは分かるが、やる前に一声くらいかけてほしい」という評価をされることもある。

報連相という堅苦しいことを言うつもりはないが、「この件については私はこうしようと思うので、何かあったらフォローいただけると助かります」と言っておくのが大人のあり方だと思う。


■  助けを求めない理由②:助けを求めることに慣れていない


前項のようなスキルや経験に自信をもって助けを求めない人もいれば、助けを求めたいけれども周囲に声をかけられない人もいる。

この理由は、それまでの人生において「助けを求める」という経験が少ないことに由来していると思われる。
これをさらに深掘りしてみると、おそらく助けを求める以前に「他者に声を掛ける」ということに抵抗があるのではないだろうか?

分かりやすい例で言えば、仕事において新人職員がどう動いていいか分からないとき、上司や先輩が忙しそうに見えるから声を掛けにくい、ということが挙げられる。(そうして黙っていて怒られることもある)
仕事なのだから質問をすればいいと思われるし、質問したところで「ごめん、10分くらい待ってもらえる?」と言われたり、「ああ、こっちはいいから先に分からないところを教えるよ」と応対してもらえるものだ。

いずれにせよ、声をかけるということをしないと何も始まらないのに、相手のことを気にし過ぎたり、迷惑をかけるかもしれないという恐怖や不安から「助けを求める」「声を掛ける」ということができないと思われる。

もちろん、このような不安や恐怖心を抱く気持ちは分からないでもない。
しかし、ハッキリ言えば「考えすぎ」であり、相手が忙しいとか迷惑などを考えるのは相手だ。その心情や都合をこちらで決めつけるのは無意味だ。

もしも他者に「声をかける」そして「助けを求める」ことを躊躇するならば、そこには「目的がある」ということを思い出していただきたい。

その目的を胸に抱ければ、その役割の一部を担っているのは自分という話であって、助けを求めてみたところで、実際のところそこまで気負う必要はないと気づけるだろう。


■ 助けを求めない理由③:”恥”や”弱み”と思っている


そして最後の理由としては、これもある意味で考えすぎと言える。

それは・・・

「助けを求めることは”恥”である!」
「他人の手を借りると、自分の”弱み”を見せると同じだ!」
「助けてもらったら、人生の汚点だ!」

・・・という考えである。
これはいわゆる完璧主義なタイプにありがちな考え方だ。

とは言え、本人の性格というよりは、幼少期からの教えや周囲の大人の振る舞い方に由来しているところが大きいと思われる。

しかし、ここでも考えていただきたいのは、いかに目的を達成するかだ。
目を向けるべきは「誰がどうする」ではなく、いかにして到達地点を目指すかである。そこには助けを求めることの良し悪しや、一人で物事を完遂することの美学なんてものは必要ない。

その目的を達成するために充分な力量があれば一人でも問題ないだろうが、おそらく個人のレベルを超える事態であるため支援の検討をしているのだろう。それなのに、”恥”やら”弱み”といった個人の価値感を持ち出されても周囲は困るだけだ。

もしも、助けてもらうことに ”恥” とか ”弱み” とか ”汚点” といった考えを抱いているならば、むしろその考え自体が ”恥” と思っていただきた。

大袈裟なことを言えば、全体の目的達成のためならば、例えどんな相手であっても頭を下げて助けを求めることができるならば、それは1つの「勇気」だと思う。


――― と、本記事では「なぜ、助けを求めることができないのか?」を考えてみたわけだが、結局のところ全体的な目的を忘れて、自分の視点でしか物事を見ていないからという理由になってしまう。

しかし、他人に声をかけにくいという要因や、幼少期からの教えなから植え付けられた価値観などをバッサリ切り捨てるつもりはない。

誰もが「助けてほしい」と思う場面は生きていれば絶対にあるものだ。
それに対して(自分でも意識していないだろう)自意識が邪魔をして「助けを求める」という、集団という社会に生きる生物として当たり前のことが阻害されていることは想像に難くない。

それでも、本記事で言えることは「周囲に助けを求める」ということは必要であり、そこを躊躇するならば、まずは「助けを求めることの目的は何か?」を振り返っていただきたいことだ。

それを思い出すことができたなら、きっと「助けを求める」ということはプロセスであって、その先にある少しでも良い未来を目指せることになるということに気づけるだろう。

そうすればきっと、「助けを求める」ということに多少は抵抗感はなくなるだろう。すると、生きることも多少は気楽になるかもしれない。

ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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