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なぜ私たちは、自分のことを他人に話したいと思うのか?

高齢者介護の基本は、コミュニケーションにある。

誰だって話を聴いてもらいたいし、そして自分の感情を理解してくれる人がいるというのは嬉しいものだ。

それは色々な経験を経てきた高齢者であっても同じであり、特に不安や悲しみなどの感情を抱いている方にとって、自分の気持ちを話すということは精神的な安定につながる。

そこで聴き手の役割としては、話している内容が支離滅裂であっても、同じ内容を繰り返し言っていたとしても、ひたすら傾聴と共感に努めることだ。

否定したり話を遮ることはNGだ。そんなことをすると相手を傷つけたり信頼関係を損ねる恐れがある。 


 
それにしても、なぜ人間は自分のことを他人に話そうとするのか?
そしてなぜ、他人に話すことで精神的に安定するのか?

よく「悩みは一人で抱え込まないほうが良い」と言われている。

確かに悩みを誰かに話すことで気分がスッキリすることがあるが、このとき自分の中で何が起きているのか?

まず、「自分を客観視できる」ということがあると。

悩みを抱えていると視野が狭くなってしまい、自分の状況が観測しにくくなってしまう。それを他人に伝えることによって状況が整理されていく。

すると、わずかながら視野が広くなり、自分の置かれている状況を俯瞰することができるようになる。そこで話しているうちに解決策が浮かんだり、自分の悩みが大したことがないように思えてくることもある。

きっと、このような体験をしているうちに、自分の中にある課題や感情を誰かに話すことは有効であると実感していくのだろう。 


 
そもそも人間は、言語によって他者に何かを伝えたい欲求が備わっている。そのうえで幼少期に親などの周囲の大人たちが話を聞いてくれるという経験を重ねていく。

子供が「聞いて聞いて」「このあいだねー」と親に語りかける場面があるが、そこでちゃんと話を聞いてもらえると嬉しい記憶と感情が残る。そこから子供は「話を聞いてもらえると嬉しい」という感情が育まれる。

もちろん、残念ながら周囲の大人たちに話をちゃんと聞いてもらえないまま大人になった方々もいる。しかし、承認欲求は大なり小なり誰にでも備わっているので、話を聞いてもらえずとも「話を聞いて欲しい」「自分を見て欲しい」という気持ちは幼少期に構築されていくだろう。

大人になるにつれて自分が話す内容は線引きされていくが、それでも「話を聞いて欲しい」という欲求は残っているし、色々なことを知っていくほどに「この考えは伝えたい!」と具体性を帯びていく。

しかし、それを伝える場面が限定されたり、自分が身を置く環境での立場などを気にして口にしなかったりすることが現実である。一方、自分のことを話せる場面が少なくなるほどに、どんどん「話を聞いて欲しい」という欲求(または不満)は蓄積されていく。 

何を言いたいのかというと、成長過程で私たちは他者と関わるにつれて「話を聞いて欲しい」という感情を自然と育成しているという話だ。


 
――― なぜ私たちは、自分のことを他人に話そうとするのか? 

この疑問をまとめると次のような考えになる。

それはまず「現在の自分を再確認する」という客観性を得ることであり、それを「他人に認識してほしい」ということにつなげようとすることにある。

そこからできれば、現在の自分という存在のあり方や考え方を「他人に共感してほしい」ということである。

これらは子供でも大人でも、高齢者でも変わらない性質である。

たまに「私は他人に分かってもらいたいなんて思わない」という人がいるが、(揚げ足取りのようだが)この言葉だって翻してみれば「私はこういう人間だと分かって欲しい」と主張しているのと同じである。

私たちは一人では生きられない。人間は社会という集団生活で生きている。
一方で自分と言う存在を確立したい気持ちもある。

それは人間として生きるからには逃れられない摂理であり、このようなことを知っていれば人間関係も少しは楽になるのかもしれない。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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