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サッカーのために磐田を歩いた、やや無謀な18歳の旅

スポーツについて何か書くとして、私が真っ先に思いつくのは静岡県磐田市に本拠地を置くサッカーチーム、ジュビロ磐田。
そして中山雅史選手のことになる。

サッカーは中山雅史選手との出会い

私がサッカーに興味を持ったのは、高校時代。
仲の良い同級生の影響で、休み時間にサッカー雑誌を読んでいるうちに夢中になった。今やキングカズの名で知られる三浦知良選手をはじめJリーグ黎明期の超スター選手が並ぶ中で、私の心を掴んだのは中山雅史選手だった。

パワフルなプレイ、少し甲高い声、コミカルな人柄。

”ゴン中山”という愛称からも、どちらかというとユニークなキャラクターで注目を集めていた彼の、情熱的なプレイは誰よりも目を引いた。

課題の多い進学校と塾通い、お金も時間も自由にならない高校生活の中で、友人から借りた雑誌やニュース番組のスポーツコーナーで情報を集め、時にはこっそり深夜のラジオ番組に耳を傾けたりしながら、届かないサッカーへの想いをつのらせていった。

そしてこれも友人からもらった知恵で、切手を貼った返信用封筒と便箋を同封して中山選手宛てにファンレターを送ったところ、なんと返信をもらうことができた。

便箋一杯に大きく書かれた直筆サインの下に、ボールペンで「受験頑張ってください」のメッセージ。
筑波大学出身で教員免許も持つ文武両道の中山選手は、字もとても綺麗で感動した。

今思えば色紙にしておけばよかったのだけど、大きなものの郵送が当時思いつかなかった。中山雅史選手のサインと私宛てのメッセージが書かれたこの便箋は今も宝物として手元にある。
そんな中山選手直々の応援のおかげで(ということにして)私は無事大学に合格し、親元を離れて行動の自由を手に入れた。

初めて訪れた磐田市

いつか直に試合を観戦したい。
そう夢に見続けていた私は、大学に入学した年のある日、磐田市へと向かった。
目的はもちろん、当時中山雅史選手が所属していたジュビロ磐田の本拠地・ヤマハスタジアム。

それまで受験一筋の生活で社会経験のあまりに乏しい18歳。長年抑えられてきた自由への渇望に近い期待は、不安よりもずっと大きかった。
親に言えばきっと反対されると思って、誰にも言わずに一人で電車を乗り継ぎながら、全く土地勘のない場所へ向かう。

前後の記憶が不確かなのだけど、私は磐田に来るまでの電車賃で所持金はほぼ使い切っていた。どこかでATMを見つけて下ろせばいいという楽観的な考えで向かったものの、その日はあいにくの日曜日。稼働しているATMに出会えないまま、無防備な18歳が磐田駅に降り立った。

駅から少し距離のあるスタジアムまでの道のりは、当時の私にはちょっと難しかった。そこで、タクシーでスタジアムまで行くことにした。とにかく時間が迫っていたので、間違いのない手段を選んだ。
駅からどこかの地点に向かうより、どこかの地点から駅を目指す方が簡単だろうという勘も働いた。帰りは歩けばいい。
後に、この勘は吉と出る。

果たして、私は当時の状況でできる最も確実な順調さでヤマハスタジアムへと到着した。
そして残りわずかだった最後の所持金は、タクシー代に消えた。

入場チケットは事前に入手していたのか、その分だけ取り分けておいたのか、とにかく無事スタジアムに入り、水色の布が飛び交う席に混じって観戦することができた。
中山雅史選手はこの日、現地にいなかった。
それでも、ずっと雑誌やテレビで観てきたプロサッカーの試合を現地で体感する楽しさは最高だった。周囲のサポーターを見習いながら、かけ声や振り付けを真似た。すぐ近くに出場選手の奥さまとお子さまたちがいらっしゃったのが、聞こえてきた会話で分かった。

試合後、徒歩で駅へと向かう。
日帰りの予定だから宿など取っていないし、交通費をどこかで調達しないと帰ることもできない。
土地勘のない街で迷子にならないために、最短ルートではなく、大通りに沿って分かりやすい交差点で曲がるだけのシンプルなルートを選んだ。

この選択がまた大正解だった。
帰りの電車代どうしよう、と頭の一部でぐるぐる考えながら、所持金のない状態で初めての街をとぼとぼ歩いていた私の目の前に、どーんと現れたのは磐田郵便局。日曜日もATMが開いている大きな郵便局だった。

Googleマップを貼り付けると車で表示されてしまうけど、徒歩だと46分と出るルート。
生活費は郵便局の口座に入っているので、これで私は助かった。
この道を歩いていなければどうなっていたのか想像できない。

こうして、無謀な手際の悪さと奇跡的な運の良さとを織り交ぜながら、私の夢が一つ磐田の地で叶った。

中山雅史選手を観た2つの試合

私が初めて直に中山選手を観たのは、東京のスタジアムで行われた日本代表戦。高校時代にサッカーを教えてくれた友人と一緒に観戦した。
スタメンではなかった中山選手は、ハーフタイムにフィールドに現れて他の選手とボールを蹴り合った。
応援席の後方では中山軍団と言えるほどのサポーターが集まって「ゴンゴール」の応援歌を大合唱していた。私たちはその歌を真似て一緒に合唱した。
フィールドの中山選手は、こちらに顔を向けるわけではなく黙々とウォーミングアップを続けながら、曲に合わせて腕をクイックイッと動かす。おそらくお約束の仕草なのだろう。応援の声も歌も本人に届いているという実感がたまらなく嬉しかった。

友人の目当ては別の選手だったけど私に合わせてくれて、二人で「ナカヤマーナカヤマー」と騒がしく熱狂していたから目立ったのだと思う。
試合後、2列ほど前方で観戦していた男性が話しかけてきた。
「僕は中山君の同級生なんですよ」
お互いに一緒に応援できたことを喜び合った。

次に試合観戦したのは、ジュビロ磐田vsFC東京。
FC東京のスタジアムでジュビロ磐田はアウェイで、それでも水色の装備を整えたジュビロ磐田のサポーターの姿があちこちに見えて頼もしかった。
この時にはもう社会人になっていた私は、しっかり資金も用意して応援グッズとタオルを買って、水色の集団が固まった一角に混ぜてもらい、ホームにも負けない応援を送った。

当時、怪我のためかレギュラーではなかった中山雅史選手。
でもこの日は9月23日。そう、中山選手の誕生日だった。きっと姿を見られるという確信のようなものがあり、その予感の通り後半の選手交代で彼は登場した。あの時の湧き立った空気は忘れられない。FC東京のサポーターからも絶対に歓声が上がっている。
いつの試合でもそうだけど、彼には体力温存という概念がないのか無謀なほどの無茶苦茶な全力疾走を最後の最後まで繰り広げる。彼が走る限りこちらも叫び続けるしかない。

ジュビロ磐田の中山雅史選手。

肉眼でその姿を見たのは、今のところこの日が最後である。

試合結果は常に気にしていたものの、正直それほど熱心なサッカーサポーターかというとそうでもなかった。ファンクラブにも入っていない。
なかなか試合観戦に行けなかった理由は立地にもある。東京と名古屋の中間あたりに位置する磐田市は、長野県からは遠かった。

それでも、世間知らずの頼りない18歳が磐田へのちょっと無謀な旅をした記憶は強く残っている。なんなら今でも自信や元気を無くした時に、柱のように心を支えてくれている。
その原動力になったのは、やっぱり中山選手の情熱的なプレイを通してサッカーというスポーツからもらった挑戦心と勇気だったのだろう。

磐田市への再訪

いつかまた磐田へ、という気持ちはずっと心にあった。

人一倍遠出が好きな私は車で日本各地を走ってきた。それでも長野県から見て東京方面でも名古屋方面でも日本海方面でもない静岡県は通過することすらほとんどない。距離というよりもアクセス的に遠い場所だった。
他の土地にはない特別な感情を持っているだけに、行くなら特別な時にという意識が逆に枷となって今まで実現してこなかった。

ところが、昨年から世界の状況は一気に変わってしまった。
毎月のように遠出の予定を入れて県外往来を繰り返していた生活が一変し、実家にも帰れなくなっている。
数か月ぶりに周囲が落ち着いて動ける間にどこか、と行き先を厳選する中で「そうだ、静岡県へ行こう」と思った。ゆっくり滞在できなくていいから、せめて、あの日歩いた磐田の道を今の視点で確認したかった。

訪問は2021年4月中旬です。移動の前後2週間以上、県境を越える往来はしていません。自家用車での単身移動を基本とし、人との接触と密をできるだけ避けてマスクと消毒など感染予防に努めています。身近な接触者の中に体調不良者や感染発症者はありません。

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車での訪問なので、ヤマハスタジアムに隣接した無料駐車場に停車。
この日は試合も何のイベントもなく、車は少なく人影もほとんどない。
見慣れたヤマハの音叉のエンブレム。この周囲は広大なヤマハ関係の敷地となっている。

歩道を歩くと、ヤマハスタジアムが見えてきた。

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ジュビロ磐田の本拠地らしく、水色のカラーが鮮やか。

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入場はできないので、周辺をうろうろして見取り図を見たり看板の撮影をしたりして過ごす。
選手がもう全然分からない。

スタジアムに隣接するジュビロ磐田公式ショップ。

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ピンバッジとリボンマグネットを購入した。
タオルは悩みに悩んだ末、いつか試合を応援する日が来たらその時に買うことにした。

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近くの沿道にはマスコットキャラクターのジュビロ君。

ここから、あの日のルートで磐田駅へと向かう。

当時Googleマップがあればきっと最短ルートを選んでいた。なくて良かったと思えるほど、絶妙な位置に磐田郵便局がある。

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どーんとそびえる建物と郵便局のマークを見つけたときの、救われた感覚はまさに、砂漠でオアシス。登山中の山小屋。旅の宿屋。

そして、磐田駅。

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当時の駅舎や周辺の光景は全く覚えていない。確かなのはこの駅からタクシーに乗ったことだけ。

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大きなクスノキと、磐田市イメージキャラクターのしっぺい太郎くん。

駅の各所にジュビロ磐田のカラーとキャラクターが配置されている。

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駅前の磐田市観光案内所に立ち寄った。
ここからヤマハスタジアムへの道のりを聞くと、対応してくれた係の女性が親切にバスの時刻表を見せてくれた。「だいたい2時間に1本ですね」と聞いて、そんなに少ないのかと驚いた。
「ええと次は、あっ!ちょうど出るところです!!」

建物の表に出ると、今まさに駅前ロータリーを右折で出ていくバスを発見。
2時間に1本の貴重なやつ!

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落胆する係の女性を見て、あっこれから行くところじゃないんで大丈夫ですって誤解を解いた。
ちなみに、タクシーを利用した場合の金額を聞いたら1500円程度とのこと。数字がさっと出てくるところはさすが観光案内所。

そして、ヤマハスタジアムの最寄り駅はこの磐田駅ではなく、隣の御厨駅なのだそうだ。

ここからなら徒歩でも近く、試合がある日はシャトルバスも出るらしい。
今ならこうして下調べや準備ができる。カーナビやGoogleマップを使って道に迷わないし、郵便局の場所も簡単に分かるだろう。

でも、だからこそ、実家から解放されたばかりの18歳があの日行ったやや無謀な冒険を、今こうして振り返って私はちょっと誇らしく思うし「いいね、よくやった」って声をかけたい。

これからの応援

私にとってジュビロ磐田は中山雅史選手に対する応援とほぼ重なっていて、その後怪我に悩まされたり移籍したりで、サッカーの応援そのものとは疎遠になっていた。

2021年1月、中山雅史選手はコーチとしてジュビロ磐田に帰ってきた。

今回ヤマハスタジアムを訪れたことで、あの歓声と熱気に包まれて胸の奥から熱がこみ上げてきた感覚が蘇ってくる。私が応援するサッカーチームはジュビロ磐田しかない。
同時に、時間とお金があっても気軽に応援に行けなくなったこの情勢がどうしても障害になってしまう。

磐田の訪問から長野に帰った翌日。
突然、Googleから通知が届いた。

それはジュビロ磐田の試合情報の通知。

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位置情報!?それとも写真!?こわっ!!

意図しないスマホの情報取得に少し戸惑いながらも、このとき気持ちはすっかりジュビロ磐田に寄っていた。通知を許可して、それ以降は試合の勝敗を受け身ながら追っている。

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※記事にするため5/1に撮影したキャプチャです。

そしてこちらも!

コーチとしての中山雅史、公式YouTubeチャンネル!
相変わらずの中山節でコミカルに軽快に、そして試合の振り返りは真面目に、時に厳しく、熱く配信している。

「俺がジュビロの中山だ!」

その言葉がまた聞けたら、そしてフィールドに立つ中山雅史選手をいつかまた観ることができたら嬉しい。

#スポーツがくれたもの


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