よりそう

頑張っている自分にエールを贈る

自分の評価は、自分でするものではない。
どれだけ頑張ったからと言って、成果が伴わなければ、ヒトからの評価が良くなければ、何も意味がない。

人生のどのへんで刷り込まれたのかはさっぱり憶えていないけれど、なんだかずーっと昔から、そんな考えを持ち続けている気がする。


私の母と姉は、効率よく動きたいタイプだ。「面倒だから」と無駄な動きをできるだけ省くように考え、行動する。
だから同じ場所を行ったり来たりすることはほとんどないし、いくつものことを同時並行・同時進行で進めていける。

そんな母と姉は、私の動きを見て、どうしても口を出したくなってしまうらしい。

「それやるの、いちいち面倒くさくない?」
「こうしたほうがラクじゃん」

ひとつひとつ、確認しながら、間違えないように。
そうやってうろうろと、何度も同じ場所を行ったり来たりする私に投げかけられる言葉に、責める意図はまったく含まれていない。

けれども、わたしは言われるたびに、心の隅っこのほうに嫌な思いを溜め込んだ。箒でも掃除機でも除去しづらい角(かど)のほうに、塵みたいな嫌な思いがどんどん詰まっていく。
わたしの心が豆腐よりも脆かったから、些細な言葉さえ棘のように尖って感じただけなのかもしれない。けれど、紙で指を切ってしまうような、小さいけど確かな痛みを、ずっと感じていた。

きっと、わたしの頭が悪いからいけないんだな。
きっと、わたしが鈍くさいからいけないんだな。
きっと、わたしの気が回らないからいけないんだな。

母や姉のように、何でも効率よく動けるようにならなくちゃ。
それが、当たり前だと思ったから。


実家を離れたのは23歳の時。会社員になってしばらくたった、10月ごろ。それからもう、2年近く経つ。
一人暮らしを経て、今は姉と二人暮らし。家が少しだけ離れている両親とは、2か月に1,2回くらい食事に行く程度には仲が良い。

家を出てから約2年。わたしはわたしで、いろんなことを経験した。
会社員になった。ミスをして、泣いて帰った。悔しい思いを抱えて、泣いて眠った。泣き虫な私を受け入れてくれた会社のことが、社員さんたちのことが、少なからず好きだと思えた。
一人暮らしをした。休日は死んだように体が動かなくて、道路に面したベランダから車の排気ガスが入らないように、風通しの良さそうな窓はいつも閉まっていた。掃除が行き届いていない部屋で、初めてローンを組んで買ったノートパソコンと、特に目的もなく眺めるためのテレビばかり構っていた。
オンラインコミュニティという存在に触れた。中に入ってみたら、とても居心地が良くて、入り浸るようになった。依存者のように毎時間SNSを覗いて、仕事中もSNSの更新を気にしてソワソワしていた。いつの間にか、毎日顔を合わせる会社の人たちよりも、顔も名前も知らないオンラインの人たちを信用するようになった。

いろんなことがあったなかで、少しずつ、自分のことについて考えることが増えていった。
私は何もので、何が好きで、どんなことを求めていて、どんな生き方がしたいのか。
自分のことをあまり信じていないこと、自分にほとんど期待していないことを知ると同時に、もう少し、自分のことを信じてもいいのだと、自分を褒めてもいいのだと知った。


いつかは、母と姉のように、何でも効率よく動いて、何でもこなせるような人間にならなければいけないのだと、それが当然の義務のように思っていた。
会社の仕事でも、いかに効率よく、ミスをしないように、より成果を出せるかが求められていたから、それが理想なのだと思っていた。

でも、心のどこかで、ずっと、ずっと、泣きそうな自分がいた。

効率がよくなくても、ひとつひとつ、確認しながら、間違えないようにしていた自分のことを、誰も何も言ってくれない。
まるで見えていないかのように、わたしがやったことについて、誰も触れてくれない。
きっと、わたしがやったことなんて、できて当たり前で、やって当たり前のこと未満のことだったんだと思う。だからわざわざ言及することなんてないし、むしろもっと早く、できて当たり前のレベルへ上がってほしかったんだと思う。

それでも、どうしても、わたしは、わたしのやったことについて、「よく頑張ったね」って、褒めてほしかった。
「こっちのほうがラクじゃん」と言ってもらった効率よくやる方法は、できることなら自分で考えてやりたかったし、「それやるの、いちいち面倒くさくない?」と聞かれても、面倒じゃないからやっていたし、面倒だけどちゃんと意味があると思っていた部分だってあった。

みんなとわたしは違うのだと、わたしはわたしのやり方をしているんだと、大声で叫んでしまいたかった。

本当は、わたしのことを見ていてくれた人もいたし、見ていてくれたうえでいろいろ言ってくれた人もいた。でも、それを全部、まるでわたしが否定されたかのように受け取ってしまっていたのだと思う。
自分でも思っている以上に脆い心で、相手の言葉を勝手に棘にしていたんだと思う。


自分の評価は、自分でするものではない。
どれだけ頑張ったからと言って、成果が伴わなければ、ヒトからの評価が良くなければ、何も意味がない。

わかってはいるけれど、わたしの心は脆すぎて、自分で自分を褒めていないと、隅っこのほうから腐っていって、やがてはすべてが朽ちてしまうんじゃないかって思う。

わたしは、ちゃんと頑張ってるよ。
そんな一言くらいは、自分にかけてあげたっていいと思うんだ。

読んでいただきありがとうございます。 今後も精進いたします。