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コロナ時代の私たちと都市・建築2

感染と均質化

 全国の天気予報で見る日本列島は、北海道が晴れていても九州は雨模様だったりするが、現在、テレビや新聞で目にするコロナ禍の日本列島は、感染者数の程度を色の濃淡で表現したものであり、それは数量的な違いこそあれ、均質化している日本列島の、何かのっぺりとした印象を抱いてしまう。都心などの人口が集中しているところは色が濃く、それが日本全国へ薄く長く伸ばされていく。やがて濃い色は都心のみならず、地方にも拠点を作り、またそこから周辺に伸ばされていく。そういった様に我々は不安を覚えつつ、均質化していくことへの抵抗感を抱いている。
 しかしながら、3、40年前の日本は都市景観や日常での出来事をフラットで均質的なものへと仕向けていくことに躍起になっていた。都市部には、ただただ人目をひくような建築が増産され、未来都市への布石が打たれているようであった。様々なものが都市部に集中し、地方では少しでも都市部に近づけるように、最新の情報を吸い上げようとしていた。そうやってできた日本列島の均質化の下地はそのまま今まで生きながらえており、当初の目的もおぼろげになりながら、コロナ禍ではその負の側面だけが不安要素を駆り立てているようだ。つまり、感染という不安は突然訪れた現象ではなく、時代の連続性の中で熟成された都市の拡散がもたらしている要素も多分にあるのではないか、という気がしてくる。

SNSのない時代

 かつて、1980年代のバブル期においては建築デザインが消費の対象であった。『建築家になによりも必要とされた才能は『有名である』という才能である。これはジョークでも比喩でもなく、80年代の現実であった(隈研吾「負ける建築」、岩波書店、2004年)』といった言葉のとおり、とにかく目立つ建築をデザインすることが建築家に求められた職能だった。それはつまり、人を集めるという機能を建築が担うことであり、仕事や買い物といった目的のためだけではなく、そこに行くこと自体に意味があった。現地に赴き、奇抜なデザインの建築写真を撮り、それを周囲に語ることによって、今のSNSに代わる役割を果たしていた。人々は甘味に吸い寄せられる蟻のごとく、メディアを通じて見聞きした建築やそこでの娯楽を目当てに行列を作り、何かを評価するのではなく、実際に体験したことを価値とした。建物内に人々が密集することは成功の証であり、夜の街はいつまでも宴が続く幻想を演出していた。

ブレードランナーのように

 ポストモダン都市を語るとき、未だに1982年公開のSF映画、「ブレードランナー」が引き合いに出されるのは、そこに密集で過密で混沌とした東京(トーキョー)が描かれているからだ。そうやって進化を続ける都市こそが未来なのだ、と信じられ、その動きはやがて全国にも広がっていった。地方での権威の象徴である警察署も有名建築家によってデザインされることで地域に貢献しようとし、それはやがてランドマークにはなったが、地方には密集で過密で混沌とした都市はできなかった。人々を引き寄せ密集させる装置であったはずの建築は、有名な建築家により目立つことには成功したが、未来都市の構成要素になることはなく、負の遺産として皮肉られる対象になってしまった。子供の頃に本で見た21世紀の都市や映画「ブレードランナー」の未来都市には重要な注意書きが欠落していた。「これは日本の未来を描いたものではなく、東京など一部の地域の未来を描いたものであり、地方にあってはこの限りではございません」と。

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