#3『アンダーグラウンド』
20歳の誕生日を迎えて間もなくインドへ行った。
1度も日本から出たことがない当時の僕にとっては、ほとんど地雷原を行くような旅だった。
良くも悪くも数々のトラブルに見舞われ、今思い返しても人生で最も刺激的な経験だったと言える。
(その素晴らしい旅の話はまた別の機会にでも書くとする。)
しかし、本当に難儀だったのは旅中のトラブルよりも、旅に出る前の周囲の野次だった。
散々色んな人にあーだこーだ言われ、すっかりうんざりしていた。
当時アルバイトしていたイタリアンバルでは、常連のお客さんにカウンター越しに頭ごなしに説教された。
初めての海外旅行でインドに行くこと自体ナンセンスだし、絶対に楽しめないから辞めるべき、海外旅行の経験が豊富な俺の言うことを聞いた方がいいよ。
とまあこんな具合に。
ちなみに彼はインドに行ったことはないらしい。
友達にも、人生観を変えに行くんですか、と鉄板の手段で小馬鹿にされたり。
もちろん、その友達もインドに行ったことはないらしい。
元々僕は自分の好きなことややりたい事がはっきりしている人間なので、そんな杜撰な他人の言葉に惑わされることは無かった。
ただ彼らのような人間をすごく退屈だと思った。
なぜか彼らは自分と関係の無い他人の人生に干渉したがる。
とにかく自分の知らないことに文句を言いたがる。
僕があの時思ったのは、どうしてインドに行ったことのない人間が、行こうとしている僕に干渉してものを言えるのだろうか、ということだった。
きっと本人は何も考えずに言葉を発したのだと思う。
頭の悪い人間は自分の言葉に責任なんて持っちゃいないから、すぐに他人の人生に干渉してものを言いたがるんだ。
(貧しい心の持ち主は人を殺した意識さえ持たない、とはまさにこのことだ。)
まるで他人の物語に干渉することでしか自分の存在を証明できないみたいに。
とても退屈な人間の話だ。
最近読んだ本に書いていたが、人間は唯一物語を生み出すことが出来る生き物らしい。
例えば、古来から宗教においては神話が存在するし、映画に小説に漫画、果ては有名人の自伝とかゴシップも含めて、全てそこには物語が存在する。
そして、僕達はそういう他人の物語の俯瞰的な傍観者として生きている。
僕はそれはとても素敵なことだと思う。
何故なら自分では経験出来ない別の物語や、自分では思いつかない別の考えを知るきっかけになるからだ。
例えば好きなアーティストにまつわる書籍を読んで、その人の人生を紐解くような瞬間、そこに存在する物語はとても興味深く面白い。
あるいは他人の言葉、詩、そこに内包される哲学を知ることは非常に興味深い。
自分の人生に少なからず影響を与えるし、学びにもなる。
しかし、退屈な人間は他人の物語にいちいち文句をつけたがる。
何故かって?
自分の人生に物語が存在しないからさ。
実は退屈で価値のない人生だと自分で分かっているから。
北朝鮮がなぜミサイルを飛ばすのかって?
きっとそれに似た何かだと思うよ、それが何なんか改めて言うつもりもないけどさ。
群れて盛り上がることで人は気持ちよくなるし、そこに怒りの矛先があれば尚気持ちいいに決まってる。
頭を使わなくて済む滑稽な思想はほとんど危険なドラッグと同じようなもんだ。
だけど、僕達はナショナリズムの高揚に気持ちよくなってる戦時中の馬鹿なニッポンジンや、全共闘世代の空っぽな左派の末路を知ってるじゃないか。
彼らはみんな退屈な人間だったって思わないか?
みんな他人の物語に干渉して、あるいは他人の物語に操られて、意味の無い人生を歩んできたんだ。
何の話をしてるのかって?
君の話をしているのさ。
君と僕が生まれたこの国の話だよ。
みんなイライラしている。
退屈で頭がおかしくなっている。
こんな状況になってもまだ他人の人生に干渉してあーだこーだ言うつもりなのかい。
きっとこの先不穏な時代がやってくるだろう。
職を失う人もいれば、そもそも職に付けない人だっているだろうし、この世を見限る連中だって出てくるさ、悲しいことだけど。
そして多くの若者がまた希望を失うんだ。
それはいったい誰の希望なんだろう。
何となく頭を使わずに思いつく大衆の希望だったりしてな。
でもどうだろう。
僕らは自分の人生を生きる自由があると思わないか?
他人に何と言われても、行きたいと思えばインドに行くことができる。
誰にも共感されなくても、ベルベットアンダーグラウンドのレコードを聴いて、やっぱり好きだなってほくそ笑みながら酒を飲むことができるんだ。
僕は君の人生には興味が無い。
君のようにはなりたくないんだ。
君の退屈な人生を俺の前に晒してくれるな。
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