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#19『ラブ&ポップ2』

かつて僕はこんな文章を書いたことがある。

もう今の時代に誰もラブ&ポップなんて必要としていない。
2014年に銀杏BOYZの新譜『光の中に立っていてね』がリリースされた時に、明らかにそういう世の中の変化を感じた。

未だに読み返しても、我ながらよく書けた文章だと思う。

当時の僕曰く、ラブ&ポップとは、("自分とトパーズの指輪" の関係のような)最小限の共同体における特別感らしい。

つまり新自由主義と題した構造改革によって野放しにされた若者の、幸せになりという片隅の願望を意味している。

全文が無ければ理解し難いが、とにかく、バブル崩壊後の大不況下で、諦めきった若者にとって、あと少しで手に入りそうなショーウィンドウ越しの幸福、そういう些細な特別感だけが日常を繋いでいて、それをトパーズの指輪で表現している。

いずれ指輪に対する特別感は薄れていく、何かが自分に足りないという気持ちをキープすることはとても困難だからだ。
それを知っているからこそ特別でなくなる前に、援助交際をしてでも手に入れたい。
幸せになるための方法としては道徳的に間違っていたとしても、それが絶対的な悪だとあの当時の日本で誰が言えただろうか。

つまり誰かに言って欲しかった、自分が幸せになるために、自らを汚し他人を傷つけたっていいんだと、そういう自分を許してやるべきなんだと。
僕らは自分が幸せになるために、幾分か自分を許してやらなくてはならない、そういう気持ちを助長するのがラブ&ポップだ。
そして、その象徴こそが銀杏BOYZだった。

しかし2014年に銀杏BOYZの新譜を聴いた時に、それが過去の概念であることを知ってしまった。

2010年代から2020年代へ跨いで、僕らはラブ&ポップなんかなくても、自分を許せるようになったのだろうか、それともトパーズの指輪に対する特別感を諦めて大人になってしまったのか。
未だに答えは判らないままだ。

あれから数年が過ぎ、先日銀杏BOYZの新譜がリリースされた。

今更真面目に聴く気にはなれなかった。

何かに特別な感情を抱かなければ生きていけないほど不幸ではなくなった気がするし、特別だけでは埋められないほどの虚無を抱えているような気もする。

僕は何もかもが判らなくなってしまった。

アランの『幸福論』を読んだって、太宰治を読んだって何ひとつ判らないのだ。

中央線から御堂筋線に乗り換え、都会の夜の街を歩いたって、心に風も吹きはしない。
人の雑踏が、都会のネオンが僕を無視しているような感覚なんかではない、僕自身がそれらを無視して見ないようにしている感覚だ。
ショーウィンドウには目がいかない、何に対しても特別な気持ちを抱くことが出来ない。

かつて幸福を繋ぎ留めていたトパーズの指輪とはいったい僕にとっての何だったのだろうか。

来週発売するレコードが、来月開催されるコンサートが、僕を日常に繋ぎ留められるほど単純な時代ではなくなってしまったのか。
好きな物も判らなくなっている、何もかもが好きではなくなってしまったような気もする。

ましてや、わざわざCDを買いに行くことなどせずとも、ストリーミングで新譜を視聴できるし、こんな状況ではコンサートにだって行けやしない。
2年後に決定したニューオーダーの振替公演、2年後まで特別感をキープすることなんてきっと出来ない。

ラブ&ポップはもう誰のことも救えないのだ。
他人を傷つけてでも幸せになりたかったあの鋭い眼差し、ニューヨーク人ならきっとソリッドな瞳と表現するであろう、あの自分勝手な生き方。
今じゃもうそんな眼差しを他人に向けられない、何ひとつ凝視できない、僕の眼はもう何も見えちゃいないのだ。

例えば、ロンドンにいたって、台湾にいたって、サイズ違いの服を着る娼婦の様に人生を転がし続けることが出来たはずなのに。
1万円が全てみたいな生き方は、1万円がたった数杯のハイボールの炭酸に溶けていったって気にもならないような生き方に変わった。

何時間寝たって睡眠不足の体、ショベルカーみたいな体をぎこちなく働かせて、精神を掘りおこす、キリキリ喧しい精神を。

弱さの受け皿として他人を傷つけてでも幸せになろうとする身勝手さはもう許されない。
自己嫌悪の美学など尚更、とっくに賞味期限切れだ。

日曜日の道化は月曜日のターンテーブルに何のレコードをセットするだろうか。
少し元気な今なら、ニューオーダーやプライマル・スクリームだってしっくりくるはずだ。
その33回転が1日を紡いだとして、ブルーな水曜日をどう過ごすつもりなんだろう。
金曜日の夜には自らの煩悩を抑えきれず、即席の快楽に陶酔するだろう。
そして自己嫌悪に塗れた週の始まり、ブルーな水曜日のことだけが気がかり。

今更ラブ&ポップに、自分の幸せのために他人を傷つけてもいいんだよ、そんな自分を許してやりなよ、なんて言われても納得できるわけがない。
かと言って、2014年の『光の中に立っていてね』のように、ノイズに頼ったって少しも心が晴れない。
自分の靴の先を見つめるような曖昧な生き方なんて欲しくない、僕は明確な答えが欲しい、正当な理由が欲しい。

こんな気持ちを抱えたまま、銀杏BOYZの新譜を聴いた。
ほとんど投げやり、何の期待もなく、ただ月々980円のストリーミングサービスの中、ストレージを占めることのない空っぽなデータの再生ボタンを押した。

そして峯田和伸は歌った。

もうきみのこと すきなんかじゃないよ
愛しているだけ


『アーメン・ザーメン・メリーチェイン』より

彼の言葉が、何もかも判らなくなってしまっていた僕の体内に優しく浸透していく。

好きなものが判らなくなっていたわけでも、何もかもが嫌いになっていたわけでもなかった。
僕はもう好きなんかじゃない、愛しているだけなんだ。
来週発売する新譜だって、来月のコンサートだって、980円のストリーミングサービスだって、形式は問わない、その全てを愛している。
気の触れた友達だって、美しい恋人だって、好きなんかじゃない、愛しているだけだ。

僕にはもうラブ&ポップなんて必要じゃない。
今の銀杏BOYZだけを愛している。

向こう見ずな今を、ただ今だけを愛している。

そして力任せな言葉とメロディはまるでその体内に生命を孕んでいるかのよう。
精神を中和するようなYUKIの歌声は『駆け抜けて性春』の頃と変わらず僕を遠くまで連れ出す。
家の近くの公園にも、国道沿いの人混みにも、ロンドンにも、台湾にも、インドにも、フランスにも、イタリアにも、スペインにも。

サイズ違いの服を着る娼婦のような生き方ではなくても、僕は遠くまで行ける。

当時『ラブ&ポップ』という文章を書いた自分、銀杏BOYZはこうしてその続きを僕に与えてくれた。
我ながらよく書けた文章かは今の僕には判らないけれど、『ラブ&ポップ2』と題してここに残す。

大丈夫じゃないけど、大丈夫だ。

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