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家族と私とJリーグと。

ここ最近、生活から何かが消えた。



それは、毎日取り組んでた部活を
1つの試合を機に引退した時のような、
大好きな人に突然フラれた時のような。


心にポッカリと穴があく。そんな感覚。


あぁ私にとってJリーグって
あまりにも大切な要素だったんだと気づく。


だから、初noteを書きます。
改めて気づいたこの感覚を残しておこうと思い。


私にとって、Jリーグを好きでいること
愛するクラブを応援することは
自分の生きがいであって
それ以上に、家族との絆を深める手段でもある。


そこに至るまでの過程を、
そしてJリーグがあることの素晴らしさを
発信できたらな~と、書いてみます。


よかったら読んでみてください。


流れ

はじめに 
1.私とJとの出会い
2.生活必需品と化すまで~Jリーグないと息できない~
3.家族との架け橋~セレッソを通して深まった家族との絆~
おわりに


はじめに

このnoteを開いてくださりありがとうございます。
前提として、私はJリーグ全体がだいすきで、
いちセレッソ大阪のサポーターです。

そんな20代一般女子が、J沼にはまったきっかけと
今にいたるまでの背景と愛を
ただただつづったnoteです、よろしければどうぞ。




1.私とJとの出会い

Jと出会ったのはたぶん、小学校2年生くらい。

生まれも育ちも大阪市の私は、
セレッソ大阪の小中学生招待券を学校で
もらって、家族でみにいった。

これが覚えている範囲では初めての観戦。
(両親いわく、ちびっ子時代にも何度か行ったらしいが)


当時の印象は?というと
あまり覚えてない・・・というのが正直な感想で。

そのあとも、小学生のうちに何度か
招待券だったりチケットを買ったりして足を運んだ。

父と弟がサッカーをやってたのもあり
たまに連れてってもらってる感じ。

大阪にはチームが2つあるから
吹田の方にも行った記憶がある。
どっちが好きとかは正直あまりなくって。

そんな感じだった。しばらくは。


2.生活必需品と化すまで~Jリーグないと息できない~

転機が訪れたのは中学生になってから。

気づいたらサッカーがとても好きになっていた。
そのきっかけになったのは福西崇史選手


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代表の試合ではじめて彼をみて、そこから。
プレーはもちろん、顔がすきだった。

そう、私のサッカーにはまるきっかけは
女子によくある
「顔がかっこいい」からだったのです。

いまでも身の回りのものに
「15」とか「23」が多いのは彼の影響。

(15:代表での福西選手の背番号
 23:ジュビロでの福西選手の背番号)




そんな、
顔サポウルトラミーハーサッカー好きJCから
始まったけど、
大阪での磐田戦を観戦するうちに、次第に、
スタジアムでサッカーを観るという
体験が私を魅了していった


気づいたら、親なしで友達と
よくJ観戦に行くようになっていた。

でもこの時点でもまだ、
どこのチームが好きってのはなくて。


もちろん観に行くのは大阪での試合だから、
当時女の子の間で流行ってた、
ほむぺ(ホームページのこと)とか
サッカー掲示板とかに

セレッソとガンバがすきです(^^)
って書いたりもしてた。笑 (おい)

※ちなみにその掲示板で出会った友達
(新潟在住ガンバファン)とは
 何度か会ってて、今でも仲良かったりする。


しかもね、我が家にはひょんなことから
ガンバ大阪グッズが多くて。

私の家の近所が松下電工(現panasonic)の工場を
マンションに建て替えるとかで
ガンバの選手が何人かきてたことがあって。

そこで抽選会みたいなのがあり
我が家はびっくりくするくらい当選したんです。笑

サイン入りTシャツ2枚と
サイン入りサッカーボールと色紙とタオマフと。。

四人家族で人数以上の景品があたるという奇跡。



その時に来ていたのは
松波正信選手・木村敦志選手・吉原宏太選手

今考えるとレジェンド松波選手が近所の
イベントにきてくださってたなんて有難いですね。
あとは、吉原選手がかっこよかったなぁ。笑

これらのグッズはもちろん、
いまでもおうちで大事に保存しています。







で、、なんでセレッソを好きになったかって?

きっかけは、
2006年第34節川崎戦。この試合だった

優勝争いをした2005年の翌シーズン、最終節。


世界陸上かなにかで長居スタジアムを使えず、
見やすいとは言いがたい
長居第2陸上競技場で、雨の中でのゲームだった。

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1-3の敗戦。
この負けで来年度はJ2での戦いを強いられた。

そのときのスタジアムに漂う絶望感。
虚しさ。いまでも鮮明に覚えている。

対戦相手の川崎は、その試合でACLが決まったか何かで
こちらとは打って変わって
サポーターが大喜びしていた。



そんな光景を目のあたりにし、
気づいたら私も泣いていた。悲しかった。

ピンク雨がっぱの軍団に囲まれて、
透明かっぱのなかでひとり、
雨粒に負けないくらいの涙をながした。



そして、
このチームを応援しようと決めた
決めたというか、”決めさせられた”
というのが正しいかもしれない。




とにかく、この試合を機にわたしはセレッソ大阪という
チームを応援するようになった。

前年優勝争いをしたチームをそのタイミングではなく、
降格するタイミングで好きになる。
こんなこともあるんだなぁ。と、人ごとのように思う。





そこからセレッソは3シーズンをJ2で過ごした。
最初の2シーズンは、J1にあがれなくて毎年泣いた。

そんなに優勝争いをしたクラブではないので
大きい声では言えないけど、昇格争いとか残留争いって
優勝争いよりも熾烈な戦いだと思う。

来年1年間の戦うフィールドが決まるから。
たとえ優勝できなくてもフィールドは変わらない。

そして、同様にサポーターのメンタルも
なかなかに破壊される。。




いつだって、桜色のチームには
泣かされることが多かった。

だけど散々泣いたあと、毎回あらためて思うのは、
こんなにも1つのクラブに感情を動かされるって
いいなあ
ってこと。

心から好きなクラブがあって、
心から応援できるということ。
そのありがたさ。尊さ。


とはいえ
負けたらほんと、ほっといてください状態に
なっちゃうんだけどね。笑



話をもどして、、J2シーズンからセレッソを
好きになったわたしは、試合はもちろんのこと
祖母の家が近かったこともあり、
練習場にもよく行った。
※当時はいまとは違う、南津守練習場。

シーズン中はセレッソのことばっかり考えてた。
(もちろん今もそうだが)





そして、大好きな選手ができた。






香川真司選手

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彼のプレーはもちろん、まじめな態度、
試合後は常に反省を口にして前にすすむ姿勢。
すべてが素敵でかっこよくて。

今になっても、彼ほど大好きになって、
すべての発言を追いかけた選手はいない

(この件については収まらないので、
 需要があれば後日書きたい)






そして、
高校生になってから初めて年パスを買い、
仕事で東京に出てくるまではずっと保持者だった。

当時、高校生以下のゴール裏は
年パスが7500円という破格のお値段だったなぁ。



ちなみに、高校にはJリーグの
はなしをできる相手はほぼ皆無。

男子はみんな海外サッカー派で...
話し相手になってくれたのは
物理の講師(サンガサポ)だった。

彼とは休み時間のたびに、廊下でJリーグの話をした。
セレッソもサンガもJ2時代は、
J2の話しかしていない。笑



大阪の普通の公立高校で、
休み時間のたびにJ2の話をしている
物理講師とその先生の授業を受けたことのない女子生徒

という鑑みると変な構図。

そういえば先生も、
「お前と話してる時がいっちゃんおもろいわ」
とかいってたなぁ。きゅん。


ほんと、自チームがJ2にいるときって
J1の情報がはいらなくなる。
地上波もみないし。いまJ1ってどこが1位なの?状態。

はやくJ1の舞台で、あの素晴らしいサンガスタジアムで
物理の先生と再会したいなぁ。





そう、そんなふうに、
選手きっかけでサッカーにはまり
1つの試合きっかけでセレッソを愛すようになり

わたしの生活必需品と化していったのです。





3.家族との架け橋に~セレッソを通して深まった家族との絆~

先述のとおり、最初にセレッソにはまったのは
家族で私が最初。

だけど今となっては、
遠方に住む私以外の家族みんなが年パスを保有する
さくらいろの家族
となった。


気づいたらだった。


各々に聞いたら、きっかけがあるのかもしれないが
いつの間にかみんなセレッソを好きになっていて
家族の話題の中心になっていた






うちの家族のスタイルは
「スタジアム解散、観戦、スタジアム集合」


これは、家から一緒にスタジアムに行って
スタジアムの入り口で解散し、
試合はそれぞれの観戦仲間と観たい席で見る。
そして帰りにコンコースで落ち合って家路につく
というスタイル。

理由は、みんなそれぞれ観たい席や
応援スタイルが違うから。それだけ。

この、適当な感じがすき。



帰りは負ければ近所の居酒屋さんで
飲みながらご飯をたべるし、
勝てばお惣菜を買って、飲みながら
家で試合を振り返る。
(いずれにしても飲んでるな...)

そしてみんなであーだこーだ言う。
このシーンこんな感じやったんや~、
惜しかったなーー。 etc


それがうちの家族のルーティーン


そんな試合を流すテレビの横には
かつてのルヴァン優勝グッズや
J1昇格グッズなんかも飾られてる。






いまわたしは、大阪を出てしまったゆえに
そんな大切なルーティーンをなかなか
頻繁には実施できないんだけど

でもね、今はこうなってる。
アウェイの地で家族に会える

大阪に帰らなくても趣味で行った
試合の先に家族に会える

そんな日々が日常になってる。



何を思ったか、父と弟が
青春18きっぷで
はるばる横浜までやってきたマリノス戦。


父と2人で連日サウナに行きたおし、
ジンギスカンに感動した札幌戦。


なぜかまずわたしが大阪に行きそこから家族4人、
軽自動車で4時間かけて行った広島戦。
原爆ドームはもっと時間をかけて見たかったなぁ。

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そして、特に思い出に残っているのはこのAWAY

3年前、セレッソがACLに出場したシーズン。
父と二人で行った韓国済州戦。


試合当日に、日の出を見に世界遺産の山に登り
試合を見るときにはヘロヘロになっていたり。

レンタカーで島中を一周した際、
親子で右車線と左ハンドルの構造にびびり、
右左折のたびに「松田陸!松田陸!」とコールして
右サイド車線にはいることを促したり。

伝統家屋オンドルに泊まって
スーパーで買ったチャミスル(米焼酎)と
市場でかった刺身をたべたり。

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父娘で2泊3日。たのしかったなぁ。
父と同じ趣味ゆえにできる旅。

なかなか、父と娘で海外旅行って
やる機会がないし、周りでもあまり聞かないんだけど
セレッソが好きというゆるぎない事実のおかげで
そんな機会がいただけている


その父がこの間、私があげた
ノースフェイスのリュック(海外で買ったパチモン)に
ぶらさげた、済州のへんてこなキーホルダーを
指しながらこう言った。

「これをもっと増やしたいねん」

わたしは、
「海外行ってそこのキーホルダー買いたいってこと?」
と思わずきいたら少し違っていて。

「セレッソの試合で増やしたい」

だそう。
セレッソの試合で海外にいき、
そこで買ったグッズをかばんに増やしていきたいそう。




そんな父の夢を一緒に
かなえられたらいいな。


だからお願い。


私たちをたくさんACLにつれてって?
セレッソさん。








父と母は定年を迎え、あと数年で
退職し自由になる。

そうなったあと、やりたいのは
夫婦で国内全AWAYを旅すること。だそう。


そうやって、定年後もやりたいことを両親に
くれたセレッソにはとてもとても感謝している



体が元気なうちにたくさん
その機会をつくってあげられたらな と思う。
もちろん私も楽しみながら。

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↑昨シーズンHOMEマリノス戦での家族写真↑










4.おわりに

ただこうして繰り返されてきたことが
そうこうして繰り返していくことが
嬉しい 愛しい


私の好きなMr.childrenの歌にこんな歌詞がある。


ちょっといつもと違う日常が
訪れている昨今。

いま改めて、いままで
当たり前に存在してくれたJリーグに
当たり前に繰り返されてきたJリーグに
とてもとても、ありがたみを感じる。



いままで当たり前だったことは
本当はそうでなく、とてつもなく
有難いことだった
と。




また、我々のJリーグがかえってきたとき、
その尊さを素晴らしさを
感じながら、もっともっと楽しめたらいいな。



もっともっと大切にできたらいいな。




スタジアムが高揚する一瞬にワクワクしながら。
結果に一喜一憂させられながら。





いまはただ、
平和な世界に近づくことを祈って。




koyuri













執筆のお供、芋焼酎代にします。