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話せばわかる、は必ずしも実現しない

 まぁまぁ、そんなに怒らなくてもいいじゃないの。

 などと呑気に言えるのは、当事者ではないからだ。かりに、そこそこ当事者に近い位置にいたとて、やっぱり本人じゃないのだ。だから、本人の気持ちを勝手に代弁したり、あるべき方向を決めたりすることは、本来めちゃくちゃ差し出がましい。でも結構、何の気なしに人は言う。

 わたしなら、そんなことでいちいち目くじら立てたりしないけどな。

 そんなこと、ではないし、クジラの話もどうだっていい。それはその人の反応であって、当の本人がどう感じ取るかはその人の勝手である。
 そう、どっちも勝手なのである。

 ここで起きていることは、あるアンバランスである。自分にとってどうであるか、の観点から述べているだけにも関わらず、相手にもその見方がさもフェアなあるべき姿であるかのように思ってほしい、というフェアじゃない力関係である。
 もちろん、本当に度を越して何かに怒っている人を落ち着かせるために、これらの働きかけが必要である場合は、ある。
 問題は、自分の見ている世界は相手の見ている世界とは違うということを、あっさり無視しているところだ。

 この世界は、それぞれの人がそれぞれの方法で見ている。本当はひとつじゃないかもしれない。つまり、人の数だけあるかもしれない。物質的な空間を共有しているけれど、世界は同じとは限らない。
(あぁそうだ、物質的な共有する世界すらも幻想かもしれないのに)
 ときどき、うっすら世界を共有する人がいるかもしれないし、自分のいる世界には存在しないのと同じだというくらい、まったく触れも掠れもしない人もいるだろう。むしろそういう人のほうが圧倒的に多い。きっと、砂浜の中のほんの一握り、それどころか、ほんのひとつまみの砂だけで自分の世界は構成されていて、だから本当の世界なんて見えもしないし、他人の世界だってそうなのだ。
 
 人の考え方に納得がいかないことはある。お互いさまだと思う。
そんな時、言葉はその機能を発揮する。

 私はこう思う。いや、私はこうだ。

そうやって言葉を交換することができる。それで世界を広げてなるほど、と思うのか、やっぱり自分の世界にそれを取り込まずに、いや違うわそれ、と思うのか、自由に選ぶだけでいい。
 だから交換といっても、お互いに受け取らなくてはいけないわけではない。子ども会で催されたクリスマスのプレゼント交換では、自分の買ったもののほうが本当は欲しかった場合でも、嬉しそうに持ち帰らなければいけなかったけど、大人の言葉の交換では、受け取るかどうかも自分が決めていいはずだ。

 つまり、言葉が必ず相手に届く、とは考えてはいけない。

 伝える側の傲慢かもしれない。受け取る側の怠慢かもしれない。

 いずれにしても、言葉には力があることを私は真に心から信じているけれども、それは伝わることを担保してはいない。

 相手がどう思うか、どう感じるかを慮ることは、実際に大変高度な思考と想像を要する。端的に言って、わかる人はいない、といってもいいかもしれないくらいだ。違う世界なんだから。
 世界が違うということは、想像も経験に基づく予測もそこでは意味をなさないことを意味する。センスがよければ相手の感じ方をうっすら見ることができるかもしれない、という程度だ。家族や共有経験の多いパートナーであれば、その成功率が上がるだろう。それでも真の理解には及ばない。

 だから。

 言葉がやっぱり必要なのだ。どうせ理解しない。どうせ理解できない。だから、言葉で説明するのだ。受け取っても受け取らなくても、それはいい。説明し表現する、その手段を言葉は明確に担保している。


 相手の気持ちや、相手がどう感じるかを考えることは難しい。
 そこで、人は試みる。相手の立場に立って考える、というやり方を。
相手の気持ちを考えるというと途方もないけれど、その立場なら何が見えるかを考える、と思えばもう少しとっかかりやすくなる。気がする。
 しかし、残念なことにこれもやっぱり大変に難しい。そんなわけで、もっと簡単にこう言ってしまうのである。

 自分がされて嫌なことは、人にしてはいけません。

 小さなこどもが、砂場で他の子にスコップで砂をかけて泣かせてしまったり、遊んでいる他の子の手からレゴをむりやり取り上げたりしたら、大人はこう言って聞かせる。他人の世界と自分の世界が違うということを、子どもはまだ知らないからだ。しかし、かれらもすでに自分の世界を持っている。自分ならどう思うかであれば、子どもにも想像できるのだ。
 
 自分ならどう思うか。嫌だ。だから人にしてはいけない。

 スコップで砂をかけられるのは嫌だ。遊んでいる途中でレゴを持っていかれるのも嫌だ。だからだめだ。わかりやすい。
 平和な結果をもたらし、このやり方が機能したように感じる。

 問題は、このあとである。これは、子どものために噛み砕いた説明なのだ。今さら言うまでもないけれど。
 しかしながら、ここで止まったままになってしまう大人がいる。相手の気持ちを考える、相手がどう感じるかを考えることを、自分がどう思うかを基準に考えることだ、と認識している大人がいる。それでも、自分ならこう思うけど、そうじゃない人もいるかもしれないな、と想像できる人は、世界はひとつじゃないことを知っている。一方で、自分がどう思うかを基準にするだけの人には、世界は自分のそれひとつしかない。
 私なら気にしない、だから気にしなくていいよ。
 私は嬉しい、だからあなたもこれを喜ぶはずだよね。
どちらの場合も、世界は自分の世界でしかなく、フェアじゃないバランスで相手の世界を勝手に定義しようとする。

 自分はこう思う、だからあなたもそうでしょう。それがフツウでしょう。
 え、違うの?だったら、それはオカシイよ。

 それは、小さな砂つぶの世界でしかない。小さな砂つぶが、砂浜にオカシイと主張している。でも砂つぶは砂浜の一部だ。
 ねぇ、この状況のほうがオカシイでしょう?

 だから、言葉があって、私たちはそれぞれの世界から見えるものを伝える。交換はできない。受け取るかどうかも、受け取れる場所にいるかどうかも、そして受け取るべきと感知するかどうかも、それぞれの世界に委ねられている。 
 言葉を通して、世界がひとつになる、なんてことは起きない。

 とはいえ。

 世界はひとつじゃない。
 でも言葉は、世界を飛び越えることができる。

 ただそのことだけが、たぶん、揺るぎなく言える。
 



 





 

 


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