見出し画像

「大丈夫」は人によって全然違うと思った話

※この記事には台湾での地震に関する記述が含まれています。

 私はオンラインで日本語を教えている。
以前は副業だったけど、いろいろあって、今は本業みたいになっている。毎日のように、世界のいろいろなところに住んでいる人と画面越しに話をする。パソコンの前にかじりついてほとんど家を出ない日もあるけれど、地球のいろいろなところと繋がっているという気分になるのはとても楽しいし、自分が思う常識なんて何の意味もないんだということを日々思い出させてくれる環境は、実際とても刺激的だ。

 今は、アジアに住んでいる方とのレッスンがとても多い。
 中でも多いのは台湾に住んでいる方々である。ほとんどがすでに日本語を流暢に話せる人たちだ。簡単な意思疎通ができる、などというレベルではない。ノンネイティブとしてはこれ以上ないのではないかというくらい、実に運用力が高く、こちらがびっくりするような表現力豊かな日本語を使って、あらゆる話題について会話することができる。言葉の文(あや)を楽しむことだって可能だ。
 そんなわけで、この人たちとは言葉を交わせばお互いに状況や感情を理解することは容易だと感じていた。ついこの間までは。

 しかし、当たり前のことであるが、そしてまたこれは、異なる言語を母語に持つ人との間にだけ起きることではないのだが、言葉で顕在化するものは見えないもののほんの一部でしかない。だがそんなことすら、ついうっかり忘れていたのだ。
 私は、言葉で理解し合える状況にあまりにも慣れすぎてしまっていたのだと思う。

 2024年4月3日、午前。
 台湾東部沖を震源とする大きな地震で台湾全土が揺れた。沖縄にも警報が発出されたことで、日本でもすぐに報道され、私もほぼ発生直後にこれらのことを知った。地震の規模が大きい。大丈夫だろうか。
 
 生まれてからずっと日本に暮らす私にとって、他の多くの人々と同様に地震はおそろしいもののひとつである。災害直後の混乱や、余震が続く中での不安も、地震のない場所で暮らす人よりは明確に想像ができると思う。
 だから今回も、すぐに台湾の受講生たちの安否を確認したくなる気持ちを抑え、しばらくの間は情報収集のみに努めた。ネット回線の混乱や混雑、近しい方々との急を要する連絡に悪い影響は与えたくない。

 その日の夜遅くまでに、何人かの台湾在住の方と連絡がとれた。
 翌日にレッスンを予定していた方には、無理をして出席してもらうのは心配だという思いもあってこちらからメッセージを送っていたのだが、それに対して返信をくださった方もいた。

 このとき返信をくださった方々はみな、最も被害が大きかった地域にはおらず、ご本人もご家族も、そしてご自宅も無事だということだった。
 無事です!というメッセージには、笑い泣きしている絵文字😂がついていた。全然大丈夫、というメッセージには親指をたてたマーク👍とハートの絵文字がついていた。チャットでやりとりした方からは、電車が止まったから途中から歩いて会社に行ったことや、部屋の中でちょっとだけものが落ちた、などということを聞いた。

 おおむね、自分の知っている人たちに心配した以上の被害は起きていないようだと私は思った。その後、一番気になっていた東部にお住まいの方とも連絡がとれ、大丈夫です!ご心配ありがとう😍と、やはり絵文字が届いて、それで私はすっかり安心した。

 

 翌日、最初にレッスンでお話しをしたのは、笑い泣きをしている絵文字で返信をくれた北部にお住まいの方だった。画面にいつも通りの和やかな笑顔が映り、知らなければ何事もなかったかのように見えた。お怪我もなかったですか?と聞いたら、はい全然大丈夫です!と指でオーケーを示しながら朗らかにおっしゃるので、私はもうすっかり何も被害はなかったのだと思い込んだ。

 そうか、大丈夫なんだ、よかった。私はそう思っていた。
 ところが、その方が私に写真を見せてくれた時、私の考えが甘かったことを知った。 

 オフィスはこんな感じでした〜、と明るく言って見せてくれた写真には想像を超える風景があった。
 通路を塞ぐように倒れた人の背丈ほどはありそうな大きなキャビネットと、そこから飛び出したと思われる大量の書類やファイルのようなもの。黒いカーペットの上に不規則に白く粉々になった何かが散らばっている。誰かのデスクのすぐ後ろ、という不可解なところで斜めに立っているホワイドボードは、もともと置いてあった場所がどこであったにせよ、かなり移動したのではと思わせる。天井には黒く四角い穴がぽっかり開き、そこにあったパネルは剥がれてぶらさがっている。パネルについていた照明器具もかろうじてコードのようなものだけで吊り下がり、すぐ下にあるデスクをかすめる高さでとどまっている。
 
 笑顔で見せてくれたのに、想像以上の惨状だったので私はうろたえた。
え、これ、昨日の写真ですよね、と実にくだらない質問をしてしまった。
 そうそう、そうです、とこともなげに軽やかに言って、その方は続けた。 しばらくオフィスは使えませんねぇ。

 それはそうだろう。天井もまだ落ちてくるかもしれないし、下に落ちているものを拾ったり片付けたりしたくらいでは、安全に仕事ができる状態にはならないように思える。ほとんどリモートなので私はあまり関係がないですけどね、とまたなんでもないことのようにその方は笑って言った。

 私は心配になって、聞いた。ご自宅は?大丈夫だったんですよね?
自室でレッスンを受けてくださっているその方の背景はいつものようにぼかし加工がされているので、くわしい状況は見えない。
 いろいろ落ちてきました、でも大丈夫です、とまた、こともなげに答えてくれた。私は、ちょっと混乱していた。

 私は、悲壮感のない絵文字とともに送られた、大丈夫です、のメッセージをあまりにも間に受けすぎていた。私の想像する「大丈夫」は、もっと本当に大丈夫なはずだった。オフィスが仕事ができないほどに被害を受けるのは、「大丈夫」とは言わない。
 
 その日の夜、チャットでメッセージが届いた。地震が発生した当日のうちに、全然大丈夫👍と連絡をくれた方からである。地震以来、まだレッスンで顔を合わせていない。
 ちょっと部屋の中のものが倒れて片付けていました、と書かれていた。笑顔の絵文字がついている。ちょっと、とはどの程度なのだろう。また私の想像を超えているのではないだろうか。
 私が考えているうちに、新しいメッセージが届いた。その方はご夫婦そろって読書家なので、ご自宅には大きな本棚がたくさんあるのだが、そのうちのいくつかが倒れて壊れてしまったのだという。天井に届くほどの大きな本棚が倒れたらしい。人がいるところに倒れてきたなら、ただごとでは済まなかったかもしれない。焦りなのか不安なのかわからないそわそわした感覚を感じた。怪我はしていないのかと私が質問すると、またすぐに返事があった。
 はい、全然問題ありません😊
 そしてさらにメッセージが届いた。壊れた大きな本棚が3つほどあること、その他の壊れたものもまとめたら、200キロを超える大量の荷物になったこと。
 
 いったいどこが「全然大丈夫」なんだろう。

 確かに、怪我はなかったそうだし、自宅も住んでいられる状態であるらしいが、私にとってこれはまったく「大丈夫」ではない。
 もし、私がちょっとものが落ちてきたけど大丈夫、と言ったらそれは、本当にちょっと落ちてきただけを意味する。もしかしたら壊れやすいものは多少割れたりしたかもしれないけれど、壊れたものを集めても200キロにはならないはずだ。
 もし、私が無事です!と笑い泣きしている絵文字を送るなら、冗談めかして安心させる意図でそうするし、そして実際に冗談のように話せる程度の被害しかない時だろうと思う。きっと、ぐちゃぐちゃになったオフィスにはしばらく行けないなんてことは、起きていない。
 
 感覚の違い、または文化の違い、といえばそれまでだが、お互いの「大丈夫」の違いはあまりにも大きかった。台湾に住む方が、ひとりでなく何人も(その後も同じようなケースが複数判明したのである)、私なら実はちょっと、と言ったかもしれないようなことを「大丈夫」と言ったことで、改めて、言葉の示すことの背後にたくさんの見えないものがある、という当たり前のことを思い出させることになったのである。

 私の「大丈夫」と、彼らの「大丈夫」は、なぜこんなにも違うのだろう。

 学習中の外国語を話す時、人は簡潔な表現だけに頼り、詳しい状況を描写できないことがある。しかし、今回私が話したのはみな、高い日本語力を持つ人たちである。事細かに状況を説明することも可能なレベルだ。表現の術を知らなかったという可能性は低い。
 もしかしたら、他人である私を心配させないように、つまり、心理的に距離を保ってお互い立ち入らないために、なんでもないことのように語ったのかもしれない。 そういう気の使い方もあるだろう。

 また、そもそも私が特別大げさである可能性も否定しない。ときどき心配の度が過ぎることがあるのは自覚している。相手が誰にせよ、私がちょっとズレているせいでお互いの認識に差が出るのかもしれない。
 そもそも大きな災害に巻き込まれた時、命より大切なものはないし、それが守られたなら万事良し、とする感覚はもちろん私にも理解できる。
 それでもやはり、彼らの許容度は私の想像を遥かに超えていた。

もっと被害の大きい地域にいる人達は、まったく違う認識かもしれない。
直接知らないことは、今ここではふれないでおくことにしたい。

 

 言葉が示すものは、使う人によって変わる。
 当たり前なのに、本当にすっかり忘れていた。

 「大丈夫」が示すレベルが、人によって差があることは避けようのないことである。だが私は今回、避けられるべき過ちを犯した。それは、相手の「大丈夫」を自分にとっての「大丈夫」と同じように考えてしまったことである。結果的に、私の思う「大丈夫」は、かなり許容範囲の小さいものであったし、台湾の人々の「大丈夫」は、もっとおおらかで大局的な意味でのそれであった。だから、私が勝手に混乱し、不安を何度も反芻しただけで済んだけれど、心配するべき立場が逆であったら状況は良くないだろう。

 本当は「大丈夫」ではないのに、まぁ「大丈夫」でしょう、と認識されてしまったとしたら、ケアされるべきものは放置され、信頼も裏切られてしまう。立っていられないほどの抱えきれない負担を軽々しく見積もられることもあるだろうし、配慮もなくいつも通りの行動を迫られるかもしれない。
 問題を矮小化されることは、それを訴える側が望まないことのひとつである。

 「大丈夫」が示すものも、そのレベルも、人によって全然違う。

 私にとって全然大丈夫じゃないことを、大丈夫と笑顔で話す人々の明るさに、こちらが救われてしまった。実に情けないことだけれど。
 今回のことは文化の違いも否定できない。ただ、共通の母語を持つ人や似た文化背景を持つ人との間にも、起こり得ることだ。普段気に留めないでいることの中でも、大なり小なり同じことが起きている。
 どうしたって人間は自分の中の指標を頼りにものを考える生き物で、そしてそれをつい忘れてしまっている。 言葉で人に見せることができるのは、伝えようとしたうちのほんの一部に過ぎない。

 お互いの大丈夫が示すものが違っていても、お互いの大丈夫について想い巡らし、言葉が真に示そうとしたものを見つけ出そうとすることができれば、きっと本当にこの世界は大丈夫なんじゃないだろうか。
 だといいのだけれど、どうだろう。なんならそのためにこそ、言葉はすべてを表わさないでいるのかもしれない。

 そんなことを思った。

臺灣加油,また遊びに行きます!
我衷心祝願臺灣和人民早日恢復。



 ・゜゚・:.。.:・゚・:.。.:・゜゚・:.。.:・゜゚・:.。.:・゚・:.。.:・゜゚・:.。.:
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
お気軽にスキ・コメント残してくださると
言葉で表せないくらい喜びます。
・゜゚・:.。.:・゚・:.。.:・゜゚・:.。.:・゜゚・:.。.:・゚・:.。.:・゜゚・:.。.:

( 2024.4.17 追記)山門文治(やまかどぶんじ)|コトバテラス様のマガジンに、ピックアップしていただきました!ありがとうございます。



本業のつれづれ

昔話を書く時は、今思うことを書くときと、なんだか感覚が違うのは私だけでしょうか



 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?