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お先にどうぞから見えたひとつの答え

 それは私が15歳の時のことだった。
 私は高校1年の夏休みに、たった4週間ではあったが初めて海外で過ごした。高校生のための短期英語研修に参加したのである。日本以外からも参加者がいた。研修はカナダの大学で行われ、私たちは夏休みで空室になった大学の学生寮に泊まっていた。
 クラスの内容はそれほど難しいものではなく、私はいたってリラックスした気持ちで過ごしていた。すぐに、教室と寮を往復するだけの行動範囲を物足りなく思い始めたが、決められたプログラム以外で大学の敷地外に出ることは許されていなかった。持て余した冒険心をごまかすため、ある日、昼の休憩時間に食事を終えた私は、大学構内を探検してみることにした。外国の大学にそう何度も足を踏み入れることができるとは思えない。
 私はひとりで教室を出た。

 


 いつもお手洗いに行くときとは反対の方向へ廊下を進んだ。教室で笑い合う友人たちの声が背後に聞こえた。他の教室でも同じように生徒がグループで話したり、笑ったりしている。
 大きな階段のあるダンスができそうな広場や、大講堂を見て歩いた。廊下の先の、ずっしりと重い扉を全身を傾けるようにして開けると、そこは庭を抜ける長い渡り廊下だった。その先にはホールのような場所があり、白い壁に卒業生たちの写真が飾られていた。日本の学校で撮る写真では、学生たちは正面を向き、むっすりと真顔であったりもするが、そこでは上半身を斜めに構えた卒業生たちが楽しそうに、あるいは穏やかに笑顔を見せ、これからの未来を期待に満ちた眼差しで見つめているようだった。時間を忘れ、希望に胸をふくらませ羽ばたいていった卒業生たちを眺めていると、クラスが5分後に始まることを告げるチャイムが鳴った。
 うっかりしていた。かなり遠くまで歩いてきてしまった。

 私は大急ぎで渡り廊下を戻り始めた。
ふと見ると、長い渡り廊下の先に、同じように急いでいるらしい男子生徒の姿が見えた。同じくらいの年齢だろうか、あるいは少し年上かもしれない。日本人に見えたが、日本から参加した男子生徒の中にはいなかったような気がするから、アジア系の学生なのかもしれない。彼はかなり急いでいるらしく、全速力といっていいくらいの速さで走っている。長い渡り廊下の先には、観音開きの重い扉がある。私と彼の距離は10メートルはあっただろうか。彼はぐんぐん私から離れていき、扉にたどり着いた。

 

 
 そこで、予想外のことが起きた。彼は、重い扉を開けるとそのままそこに立ち、私を振り返ったのである。彼はそれまで一度も振り返らなかったけれど、後ろを走っていた私の足音は聞こえていたらしい。まだ私がたどり着くまでには少し時間がかかる。あんなに急いでいたのに、彼は立ち止まり、どうやら私を待っているようなのだ。
 私は急いでいることが彼に伝わるように、より一層足をばたばたさせて走った。ようやく扉にたどり着いた私に、彼は言った。

 After you. (お先にどうぞ)

 走っていたとは思えないくらい、涼しい顔で彼は片手で扉を押さえ、もう一方の手で私を中に促していた。これが、レディファーストというものなのか、あるいは不慣れに見える外国人生徒が扉を開けられずにもたもたするのではと心配してくれたのか。
 内心、私はひどく狼狽していたが、いえいえあなたこそ、などと言ってはいけない状況であることはわかった。だって、彼は急いでいるのにすでに数秒をロスしているのだ。私も涼しい顔を装い、いかにもそれが当たり前で、そうなることを知っていたかのように言った。Thank you.

 彼は微かな笑みを見せ、軽く頷くような仕草をした。扉をずしんと閉めると、私とは反対方向に、より一層急いだ様子で走っていった。
 やっぱり。あんなに急いでいたのに。
 わずかに、申し訳ないことをしたというような気持ちが心の底で頭をもたげた。すぐに、申し訳ないと思っては彼に失礼なのだ、という考えもよぎった。彼はするべきことをした、それだけなのだろう。

 私が同じくらいの年齢の少年だったら、彼が立ち止まらなかった可能性はある。また、逆の立場で私がそれをやった時、彼に受け入れられたかどうかもわからない。だから、もし性別を意識して行動を決めたのであれば、ある意味ジェンダーによるなんらかの区別や差別だと考える人もいるだろう。しかし、その時の私が感じたものは、単に男性の女性に対するやさしさではなく、余裕のある人間がもたらす周囲へのやさしさと配慮だった。息も切らさず涼しい顔をしていた彼からは、他人に分け与えることができるだけの余裕が感じられた。

 彼のしたことは、ただ女性に道を譲る、というだけのものではないのかもしれない、と思った。分け与えることができるものを持つために、まず自分が余裕を持つことは必要なのだ。
 ひぃひぃ言っている人が差し出すものを遠慮なく受け取れるほど人間は鈍感ではないはずだ。本当は。
 彼が涼しい顔でどっしりと待ち構えていたのでなければ、私はあなたこそどうぞと遠慮しただろう。かつてのレディーファーストの起源には、もっと単純な意味合いがあったと言われているけれど、おそらくその習慣が続くうちに、それがもたらすものに人は気づいたのだと思う。

 自分より余裕のある人からしか、人は受け取れないし、そうでありたいのなら、人は分け与える余裕を持たなければいけない。余裕のある人から受け取ったときは、自分を卑下したり、ことさらに申し訳ないと思ったりする必要はない。与えることができて、そして受け取ることができた、というだけのことだから。どっちも、できて、いる。

 人にはそれぞれ、できることがある。できることは人によって違うし、それができるタイミングもさまざまだ。
 これくらいならできるのではないか、と希望的観測を持つこともある。やるべきではないか、と義務感や焦燥感にかられることもある。
 それでも、ただ冷静に、客観的に見てみる事が必要なのだろう。

自分は与えることができるのか。
手を差し伸べる準備ができているのか。
相手に受け取ってもらえるだけの、自分であるのかどうか。

 見極めてそこで踏みとどまることは決して臆病でも卑怯でもない。喜びを持って受け取ってもらえるように、まず自分の立つ場所を確保する必要がある。手を差し伸べる方法は無数にあるのだ。なんとなれば差し伸べないという方法もある。しない決断こそが助けになることもあるのだ。できないときは時が来るのを待つだけでもいい。
 他人に頼っていて、何もしていないと自分を責める必要もない。自分が頼られることもあるし、そしてそれは無自覚であることも多い。知らないうちに人を助けたり励ましたりしている可能性だってある。

 何もしていない人なんていない。
 なんの役にも立っていない人なんていない。

 誰かがきっと、なにかできるし、全部をひとりで心配する必要はない。できることがなくても、それがほんの少しでもひとりで恥じることはない。
 なぜなら人が人であることの意味は、ここにあるからだ。

 人は、人とともにあるとき、人であることができる。
 人とともにあるから、できることがある。


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ふと思い出したエピソードをもとに、つらつら書いたエッセイ📚


今思うこと、考えること



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