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美味しそうなパンデミック

日記のつもりで書いていながら、いつもほとんど日記になっていないことは自覚しておりましたので今日はちゃんと日記を書いておこうと思う。この時代を生きる41歳がどんな風に暮らしていたのか?今我々がスペイン風邪の流行した時代のことを調べてみるのと同じようにして、百年後のパンデミック禍に私の日記が脚光を浴びることだってあるかもしれない。死んでから評価されたゴッホみたいな存在ってすごく心強い。

昨晩、いつもより多めに飲酒したため起床は8時を過ぎた。げんぱく。ああ、こうしてつまらないことを書いてしまうのも日記ゆえ。百年後のパンデミック禍にも冷笑されるんだろう。パンデミックって美味しそう。ティラミス、パンナコッタ、ぐぐっと現代に寄ってマリトッツォそしてパンデミック。

日曜日はいつもは休みだが、今日はイレギュラーで出勤。最近、なんやかんやと仕事が増え、アイデンティティが喜んでる気がする。正直なところ、忙しくなったからといって収入に直結するわけではないので仕事が入るとつまり時給が安くなるのであり、本来ならそれって喜ばしいことではないわけだが、うーん、やっぱり俺じゃなくてアイデンティティが喜んでるんだと思う。俺が喜んでいるとすれば、その仕事が楽しそうだということに尽きる。仕事は楽しいのが一番いい。同じ字だが「楽しい」と「楽」はちがう、楽しくやるのに楽しちゃダメだよって甲本ヒロトが言ってたっていう人の言葉を読んだ。本当に甲本ヒロトが言ってたかどうかは知らないが、割と刺さったからもう俺の言葉にしちゃっていいと思う。楽しちゃいけないから疲れる。

いつもは日曜日が休みだから月曜日に日曜日の新聞と月曜日の新聞をチェックするのだが、今日は日曜日のうちに日曜日の新聞をチェックできるからラッキーだと思う。マイナスがゼロになるだけで幸運を感じるんだから俺は幸せだ。プラスばかり求めがちな悪癖をお持ちの方は一度おもいきってマイナスになってみればよい。思いのほかゼロが幸福であることにじーんとくるから。それではお聴きください、マイケルジャクソンでビリーじーん。

読売新聞京都新聞朝日新聞日経新聞の文化面は必ずチェックする。なんら興味ない記事でもチェックする。興味あることにばかり触れているとどんどん偏っていく気がする。こうやって誰かの作ったカテゴリ分けに忠実になることで知らない世界に触れられる。嫌いな人の言葉にも触れられる。今日は読売新聞に俺の嫌いなチ◯◯ラ◯の社長かなんかのインタビュー記事が載っていて本当に読みたくなかったが読んだ。すると、なかなかいいことが書かれていた。出し方の問題か。確かに好きな人が嫌いな表現することもある。ゴールが嫌いだとスタートから嫌いがちだが、そこは別に一貫していなくてもいい。だとすれば、嫌いな奴の表現が好きであることもあるかもしれないが、嫌いな奴の表現を見ようとは微塵も思わない。なるべく「嫌い」は消したほうが世界は広がりやすい。

明日からの1週間の仕事の道筋を整理して帰る。四条烏丸の交差点の写真を撮る。月が綺麗だと思って撮ったのに青信号の光のほうが綺麗に見えた。こういう錯覚は人生においていくらでもある。錯覚だとて別にええやんとも思う。客観的に錯覚でも主観的に真実な場合は多々ある。主観的に錯覚じゃないならそれは俺の真実だ。ってもっと自信をもって言いたいが、自信をもって言ってしまうと辿り着いた真実が途端に色褪せていく気がする。自信満々で自分の見つけた真実を語るおっさんの話の内容の薄さに日々辟易としているからだと思う。自分の感性に疑問を抱かないことにより、その感性は瞬く間に化石になる。化石の話を無理やり笑顔を作って聞き続けるのはしんどい。しかしそれも嫌っているからかもしれない。嫌いにならなければそこから世界が広がるかもしれないのに実にもったいない、というのは客観的真実。残念ながらいまの俺は主観的錯覚を大事にしたい。

帰りに三条会商店街のフレスコで半額の刺身とハイボール2本を買う。はい、ここでクエスチョン。「半額の刺身とハイボール2本」さて、「半額」だったのは「刺身」でしょうか、それとも「刺身とハイボール2本」でしょうか。答えは「刺身」オンリー。つまり、書き方が紛らわしい。この場合、「ハイボール2本と半額の刺身」と書き換えるだけで誤解は消える。ラジオの原稿などでは特に気をつけなければならないのが、このような「誤解を与える表現」だ。ら抜き言葉がどうだとか、二重敬語が許し難いとか、そういうのをどうでもいいとは思わないが、本来、他人とのコミュニケーションでは「誤解を与えかねない言い回し」こそ気をつけるべきだと思う。こういうことを書き出すと、普段から感じている不平不満へ内容が移行しがちなのでこのあたりでやめておく。

お会計が404円だったので1004円出すと、お釣りを俺に渡すレジの女性が「こちら、大きいほうのお返しです」と言って500円玉と100円玉を1枚ずつ返してくれた。いつから500円玉と100円玉は大きいほうになったんだろう。そういえば最近は小学生同士がお付き合いして男女の仲になったりすることもあるというではないか。レジの女性は若かった。そういう世代を生きているから、もはや100円玉でさえ大きいのかもしれないなどとくだらないことを連想する程度には人生を楽しんでいる。

わかった!
余裕があると楽しい。
余裕がないと楽をする。
楽しむには余裕が必要だ。
わかりやすいのが経済的余裕つまり「金」。しかし、それが無いなら、無いなりに時間的でも精神的でも何的でもよいから自分にフィットした◯◯的余裕を見つければ、楽しくなる。余裕の余は「あまり」だ。いつも表面張力いっぱいにしていては、それを持続させるのは苦しい。いまの日本に必要なのは「甘利」ではなく「余り」だ。そこだけは割り切ってはいけない。割り切ったら余りができない。

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